仏教論理学序説

その18
恐らく、ダルマキールティの意図は、まずは、サーンキャ学派批判であった。部分と全体、個物と普遍を、別物とすれば、その批判は達成される。これは簡単であったろう。次に、同じく別物とするニヤーヤ学派との差異化を明示する必要があった。彼は、素材という部分の存在性を強調し、全体や普遍の素材形成論を主張してみせたのである。つまり、部分と全体の間に存在性の強弱を打ち出した、と思われる。「添性」や「目的達成能力」導入により、全体・普遍に一定の存在性は認めたものの、それは、真の存在たる素材に依存している限りにおいてのものであった。同じ因中無果論同士でもあり、添性を認めた経緯等もあり、これを批判するのは難しかったであろう。もし、こういう見取り図が、許されるならば、ダルマキールティの立場をmoderare realismではなく、「素材形成論」material formationとでも呼んだ方が、無難ではないだろうか?最後にゲルク派のケードゥプジェーとサキャ派のコラムパ(Go ram pa1429-1489)の『量評釈』注を比べてみよう。ダルマキールティ解釈を廻っても、対立していたとされる両者の注釈を比較することは無駄ではあるまい。ケードゥプジェーはこう注釈する。
「作られたもの」「無常」は同じ素材(rdzas=dravya)40)だけれど、「作られたもの」たる素材と「無常」たる素材の概念(ldog pa)は異なっているので、誤りはないのである、と示したものが〔例の第40偈である。〕「すべての集合体は、分別〔思考、rtog pa,vikalpa〕によって構想されただけではなく、素材によって他のものと混じらず、自己の独自性に落ち着いているので、同種の集合体・異種の集合体からの異なり〔たる概念〕には根拠がある。
byas mi rtag rdzas gcig yin kyang byas pa’i rdzas dang mi rtag pa’i rdzas ldog pa tha dad pa yin pas skyon med do zhes ston ba ni/gang gi phyir dngos po kun rtog pas btags pa tsam ma yin par/rang bzhin gyis gzhan dang ma ‘bres par rang rang gi ngo bo la gnas pa’i phyir/rigs mthun kyi dngos dang/gzhan rigs mi mthun gyi dngos po dag las ldog pa la ni brten pa can yin no//(rgyas pa’i bstan bcos tshad ma rnam ‘grel gyi rgya cher bshad pa’i rigs pa’i rgya mtsho『広大なる論書量評釈の詳細な説明正理大海』東北No.5505,tha,65a/3-4,p.745)
ここには、概念の実在は説かれていない。概念の基盤が、人間の思考にあるのではなく、素材にある、という素材形成論が説かれているにすぎない。
コランパの注釈も見てみよう。
 音声等のすべての集合体〔即ち〕自相が論題となっている。自己と同種の集合体や多種の集合体から異なった多くの概念に根拠がある。なぜなら、〔音声等は、〕妄想されずに(sgro ma btags par)素材によって、他のものと混じり合わず、自己の独自性に落ち着いているからである。この理由により、多くの概念それも、他の排除という間違いのない認識によって、分析される、と示されたのである。
sgra la sogs pa’i rang mtshan kun chos can/rang dang ris mthun pa’i dngos po dang gzhan rigs mi mthun gyi dngos po dag las ldog pa’i ldog pa du ma la ni brten pa can yin te/gang gi phyir na sgro ma btags par rang bzhin gyis gzhan dang ma ‘dres par rang rang gi ngo bo la gnas pa’i phyir/gtan tshigs ‘dis ldog pa du ma de yang gzhan sel phyin ci ma log pa’i blos ‘byed bar bstan la/(rGyas pa’i bstan bcos tshad ma rnam ‘grel gyi rnam bshad kun tu bzang po’i ‘od zer『広大なる論書量評釈の解説普賢光』The collected Works of Kun-mkyen Go-ram-pa bsod-rnam-seng-ge,1979,vol.1,TBRCの電子テキストka,21/1-4)41)
正直にいって、この2注釈にそれほどの差異があるようには見えない。どちらも、素材形成論を語っているのではないだろうか。両者の解釈をさらに精密に追ってみる必要がありそうであるが、今は、そこまでの余裕はない。
本稿は、ダルマキールティ解釈の多様性をよいことに、1種の珍説を示したものに過ぎない。moderate realismを出汁にして、妄想を語ったともいえるだろう。筆者自身は本稿執筆の機会を得て、研究の方向性を見つけた、とは思っている。ここではあえて、ライバル同士のゲルク派とサキャ派の注釈を並べてみた。また、言い忘れたこともあるので、それは次回にしよう。

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