仏教余話

その188
では、このような「無我」の問題提起を行った西欧の学者達の見解を覗いてみよう。村上博士の著書に、詳しく、その顛末が記載されているので、以下、そこから、適宜、紹介していこう。博士が、まず、言及するのは、ドイツの学者ガルベ(R.Garbe)が、1892年の出版物で語った説である。ガルベはこう述べた。
この〔原始仏教、律文献『大品』の〕「人の自我は生成の世界に属すことはできない」オルデンベルク、二版二三二ページ)という確信は、殆ど言葉通りに『サーンクヤ・カーリカー』六四に、「原理の学習から、na’smi,na me,na’ham(我れはない、わがものではない。我れではない)という究極的な認識が生ずる」と表現される。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p.747,〔 〕内私の補足)
こうして、ガルベは、サーンキャと仏教は一致している、と看做しているわけだ。次に博士は、オルデンベルク(H,Oldenberg)を持ち出す。オルデンベルクの1915年の著書を以下のように、引用している。
〔原始仏教、律文献『大品』において〕自然について仏教はその〔アートマン〕をしてこう言わせている。〔すなわち〕「それはわがものではない。我れはそれではない。それはわが自我ではない」〔と〕。-これは〔『サーンキャ・カーリカー』において〕サーンクヤのプルシャ(霊我)に与えられている、「我れはない。何物もわがものではない。これは我れではない」という同様に三支分の定型に著された認識と殆ど文字通り同じである。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p.748,〔 〕内私の補足)
この2人は、仏教とサーンキャが親縁であることは、共に認めているが、その先後関係については、意見を異にしていたようである。村上博士は、その辺りのことを、こう述べている。
 オルデンベルクは、SK〔=『サーンキャ・カーリカー』〕に見るような古典サーンクヤ(klassische Samkya)は仏教以後であるが、サーンクヤ的な教義が間接的ながら仏教に影響を与えた、と考える。これに対してガルベは、サーンクヤの体系が仏教に先行すると論ずる。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p751)
先後関係は、何をもって、サーンキャと考えるのか・はたまた、何をもって仏教と考えるのかで微妙に異なるであろう。ガルベは、この議論に対して、思想的な決着を与えようとした。村上博士の引用するガルベの意見を拝聴しよう。
 サーンクヤ哲学の霊魂は、宗教や哲学がそれ(霊魂)に帰しがちな性格を殆ど完全に奪われているが、それでもなお霊魂の概念はこの体系にあっては物質と殆ど同様に重要である。仏教の創始者は本質的な点においてサーンクヤ体系の教説にもとづいているが、彼がはじめて一歩をさらに進めて霊魂を否定したのである。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p.751)
村上博士は、先後関係の諸説を示し、最後にこう締めくくる。
 〔ジョンストン(E.H.Johnston)〕氏は年代の関係については仏教がサーンクヤに先行するとする。そしてこれがほぼ学界の定説となってゆく。ガルベが想定した年代論は漸くかえりみられなくなる。したがって仏教がサーンクヤに依存するという議論はこのままでは支持されない。しかし、すでに見た通り、両者にある程度まで共通性がみとめられる。そしてその中に無我の問題があたのである。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p,754、〔 〕内私の補足)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?