仏教余話

その108
続いて、やや、専門的過ぎるかもしれないが、インド思想・仏教思想研究の基礎が、実は、厳格な文献学であることも、知っておいてもらいたいので、『解深密経』の原典模索の状況も、合わせて、紹介しておこう。
『解深密経』の10を超える写本・判本の比較研究を行い、さらに漢訳あるいは一部回収可能なサンスクリット語原文を参照しつつ、現段階で考えうる最良の『解深密経』テキスト作成の指針を示すことが、本論文の目的である。今回は、同経第5章に見られる”paryupayoga”という語に焦点を当てる。この語に関しては、チベット語の写本・判本の東系統と西系統の訳語がまったく異なる。直訳すれば東系統は「結びつきが見られない」、西系統は「完全に尽きるとは見られない」とある。文脈から考えて、西系統の訳語が適当であるが、現在まで我々の眼に触れる機会の多かった北京版・デルゲ判等を擁す
る東系統の訳語についてもそれなりの根拠がうかがわれる。これら両系統において、なぜ上記のような訳語の不統一が起こるのか。これはサンスクリット語の辞書に未登録の”paryupayoga”という語の意味が元々明白でないことに起因する。玄奘訳では、同語に「受用滅尽」という両者の意味を持たせて訳す。このことから、ひょっとすると”paryupayoga”からの転訛であるとも考えられる。以上のサンプルの解読を通して、『解深密経』の校訂テキストを作成するには、最低でも1)東系統の写本2)西系統の写本3)敦煌写本4)玄奘訳を初めとする諸漢訳を見開き1ページに配置し、なおかつ異読
を分かりやすい形で載せる必要があることが分かる。この基礎作業を経れば、よりサンスクリット原文の文意に忠実な解釈を探し当てることが可能となり、現時点でもっとも有益な『解深密経』テキストの作成が可能となる。(加藤弘二郎、On the Tibetan Text of the Samdhinirmocanasutra-Towards a Comparative Study of Manuscripts and Editions which belong to the East and West resensions『印度学仏教学研究』54-3,2006,pp.93-99の抄録)
これは、『解深密経』をネット検索した際、偶然、みつけたものである。インド思想・インド仏教研究は、このような職人技的な文献操作に依拠すること大である。その価値は、無論、捨てがたい。しかし、こういう作業に携わっていると、いつしか、資料に埋没して、批判的な読解など出来なくなる危険性がある。結構、そういう陥穽に堕ち込んでいる研究者も多い。真に意義ある研究とは、論理的に従来の読み方や理解を変えるようなものである。学会の常識を、覆すような、通念の破壊が成し遂げられれば、以って、多とするところであろう。


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