「倶舎論」をめぐって

LXXXI
さて、近年、チベットのアビダルマ研究は格段の進歩を遂げている。その中心となって活躍しているのは、現銀谷史明氏である。まず、目にした論文から紹介してみよう。「二諦と自性―チベットにおける〈倶舎論〉解釈の一断面―」『東洋学研究』39,2002,pp.143-156は、手堅い論述の仕方で、まず、『大毘婆沙論』から『倶舎論』・『順正理論』にいたる二諦説の確認を行う。以下は、「三世実有論」とも表裏の関係にある二諦説に関わることである。若干詳しく見ておく。現銀谷氏は、こう整理する。
 二諦説は『婆沙論』において、四諦説との包摂関係の観点から説かれている。そこでは、三つの異説と婆沙評者の説〔『大毘婆沙論』で正統とされた説〕の四説が述べられる。婆沙評者の説は「四諦すべてに二諦がそれぞれ有る」というものである。二諦と四諦とを関連させて記述される例は『順正理論』にも見ることができる。一方、『倶舎論』では、二諦の説明は四諦の解説の付属として独立して述べられるのみで、四諦との関連は説かれていない。世親は二諦を存在するものの二つのタイプとして述べており、二諦説を存在の分類として捉えている。(現銀谷史明「二諦と自性―チベットにおける〈倶舎論〉解釈の一断面―」『東洋学研究』39,2002,pp.143-144)
この略述は、簡にして明である。しかし、『倶舎論』の範といわれる『雑阿毘曇心論』に対する言及がないことがやや不満である。『雑阿毘曇心論』は、一切は苦諦であるという四諦からの世界観、すなわち、仏教の伝統的観点を強調する二諦説である。しかるに、『倶舎論』は意図的にその伝統説を切り捨てた。二諦説は、ドライな存在の分類とされ、合理的な二諦説が展開されているように見える。だが、執着を離れる等の宗教的課題を重要視すれば、そのドライさは受け入れ難いものであろう。二諦は四諦とセットで説かれてこそ、宗教的意味を持ち得るのである。『順正理論』は、そうした立場から『倶舎論』を批判したのだと思われる。このようなストーリーは『雑阿毘曇心論』を考察の対象とした時に、明確になると私には思える。この点については、木村誠司「アビダルマの二諦説-序章―」『駒澤大学仏教学部論集』42を参照されたい。

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