仏教余話

その178
では、他に、漱石のサーンキャ思想の結び付きを指摘した下りで、私が、特に、心引かれた箇所も、引用しておこう。今西博士はこう述べている。
 漱石とサーンキヤ哲学との関係という点では、『夢十夜』の第六夜も考慮さるべきであろう。そのあらましは次のごとくである。運慶が護国寺で仁王を彫っているという。行ってみると、いかにも無造作に鑿を振るっている。見物人の一人が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんぢやない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋つてゐるのを、鑿と鎚の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と言う。そこで家に帰って自分もやってみた。しかし「どれもこれも仁王を蔵してゐるのではなかつた。遂に明治の木には到底仁王は埋つてゐないものだと悟つた。
それで運慶が今日迄生きてゐる理由も略解つた。」…問題は仁王が木の中に埋まっているという観念である。…丸太の中に仁王がそっくり存在しているのを掘り出すだけだ、という観念そのものはサーンキヤ哲学の「因中有果論」によっているのではなかろう
か。『サーンキヤ頌』第九頌によると、現象界は多様であるが、それらはすべて根本原質に本来潜在的に存在していたものであって、それが顕在化したものに他ならない。原因の中に予め存在しなかったものが生ずることはありえない。このように主張する。金塊からすべての金製品が、牛乳からバターやヨーグルト等が、粘土から皿や壷等の製品が作られるのであって、水からバターは出来ないし、砂から胡麻油は生じない。…因中有果論的な考え方は仏教にもある。(今西順吉『『心』の秘密 漱石の挫折と再生』、2010,pp.316-318)
ここにいわれる「因中有果論」は、サーンキヤの十八番である。幾つか、それに関する言及を挙げてみよう。例えば、長尾雅人・服部正明両博士による出版物では、こう説かれている。
 サーンキヤは原質〔=物質世界の根本原理〕の存在を論証して、二元論を理論的に基礎づけたのであり、開展説―結果は原因の中に潜勢的に存在するという、いわゆる「因中有果論」―を確立して、一つの完結した思想体系を形成したのである。(長尾雅人・服部正明『世界の名著1バラモン経典 原始仏典』所収の「古典サーンキヤ体系概説 サーンキヤ・カーリカー」昭和54年、p.35,〔 〕内私の補足)
また、中村元博士は、こう述べている。
 サーンキヤ哲学では、諸種の実在原理を立てたけれども、実在論(ontology)に関する基本的立場は、「〈有るもの〉実在は〈有るもの〉実在からのみ生起する」〔sata utoattih,nasta iti(Gaudapada ad SK.,9)ということであった。『(一)〔原因の中に〕存在しないものは〔あらたに結果として〕作り出されないがゆえに、(二)〔結果は目的にふさわしい〕質料を〔質料因として〕とるがゆえに、(三)すべての〔結果が同時に〕生起するということはありえないがゆえに、(四)能力あるものが能力によって生ぜられるべきものをつくり出すがゆえに、また、(五)〔結果は〕原因と等しい本性であるがゆえに、結果は〔現れ出るよりも以前に原因の中に〕存在する。』(SK.,9)結果なるものはすでに原因の中の存在している。すなわち、原因の中に結果がなんらかのかたちで存在するということであり、これは「因中有果」論(satkaryavada)と呼ばれている。(中村元『中村元選集[決定版]第24巻 ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学I』1996,pp.424-425)
このような発言をみていくと、「因中有果論」はサーンキヤの代名詞のように思ってしまうが、これを覆すような報告もある。服部正明博士は、次のように述べている。
 一九九八年十一月六―八日の三日間にわたって、スイスのローザンヌ大学において、「サーンキヤ・ヨーガ会議」(Conference Samkhya and Yoga)が開催された。…〔そこでは〕古典Samkhyaの重要な学説である〔因中有果論〕satkaryavada(結果は原因の中に潜在的に存在しているという説)はSamkhyaの古い資料には見出されない。もしそれがある時期にSamkhyaに導入されたのだとすれば、なぜそれが導入されたのか、また、それはSamkhya,体系内においてどのような役割を果たしたのか。これらの点を明らかにする資料が他学派の文献の中に見出される可能性はないか。〔などが論じられた〕。(服部正明「国際サーンキヤ・ヨーガ会議」『東方学』99、平成12年、pp.1-2、〔 〕内私の補足)
学界の常識も、すべてが怪しいということであろう。

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