仏教余話

その231
さて、これまで見てきたように、インド仏教は、他のインド思想との濃厚な交流を無視しては語ることは出来ない。原始仏教とサーンキャ思想の見事な符合は、仏教特有の「無我」思想自体を、再認識させるものであることは、記憶に新しいと思う。『倶舎論』も、同じように、他学派の影響を勘案することなしには、済ませられない。アビダルマの大学者、櫻部建博士は、ある対談の中で、次のように、述べている。
 サーンキヤ学派の綱要書の中に、輪廻と解脱の原因という観点から、心理状態を四種類に、それをさらに細分して五十種類に分類しています。…これはまったくアビダルマと同じ精神の所産といえるでしょう。(桜部建・上山春平『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉昭和44年、p.177』)
更に、他の学派との関わりについて、博士は、こう述べる。
 こういう分類・整理の傾向において、ヴァイシェーシカ体系とアビダルマ哲学とは、もともと近いといえるのですが、…アビダルマ的傾向、-さまざまな概念を分類・整理したり、個々の概念の意味内容を詳細に吟味したり、そして自然現象を仔細に観察し、こまかく分析して、煩瑣な教義体系をつくってゆくという傾向は、仏教だけでなく、同じころのインド思想界全般にみられる現象だということができると思います。(桜部建・上山春平『仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉昭和44年、p.177』)
また、インド仏教全般に詳しい、梶山雄一博士は、以下のようにいう。
 インド哲学諸派の中で範疇論敵実在論の立場をとるものはヴァイシェーシカ学派・ニヤーヤ学派および説一切有部などであるが、この三学派の思惟方法は実質的に同一である。…歴史的にもこの両学派〔ヴァイシェーシカ学派と説一切有部〕の発展は平行している。『ヴァイシェーシカ・スートラ』の編纂年代は有部の『大毘婆沙論』とほぼ同じ世紀一○○年前後の一時期であろうが、それ以前にも両学派は数世紀にわたる伝統を持っているので、いずれがいずれに影響を与えたかはかるがるしく断定するべきではない。しかしいま我々にとって必要なことは、これら両学派が同一の時代の同一の自然哲学ないし形而上学的思潮を母胎として発展し、同一の範疇論哲学を形成するに至ったという事実である。…これらの学派に共通している思惟方法の基調をなすものは、人間の合理的な観念には必ず対応する実在がなくてはならないという考え方である。しかしこの考え方は、『ヴェーダ』以来インド人の間に存在した素朴な観念実在論(Begriffrealismus)と同一視されるべきものではない。素朴な観念実在論では、神話的な観念や不合理な観念もすべて外界に実在すると考えられていたのに対し、我我の関心をもっている三学派においては、思惟不可能な観念、彼らの体系と矛盾する観念は実在の体系から排除されている。…彼らは存在を合理的な観念の対応物として定義したということに他ならない。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983,pp.3-5)
梶山博士の説明によって、説一切有部とヴァイシェーシカ学派の思考パターンの近親性が指摘された。しかし、これも、かなり強引な説明に見える。博士は「これらの学派に共通している思惟方法の基調をなすものは、人間の合理的な観念には必ず対応する実在がなくてはならないという考え方である。」というが、ヴァイシェーシカ学派などは、観念の外在化が、常識に反するとういう点は、十分、了承した上で、自らの体系を整えていったはず
である。「合理的な観念と実在をつなげるものは、果たして何か?どうして、つなげる必要があるのか?」という疑問は、依然、残る。私には、彼らの思考パターンの理由が、見えてこないのである。


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