Tips of Buddhism

No.83
Many Japanese homes contain both a Shinto godshelf(kamidana)for enshrining the family deiteies,and a Buddhist altar(butsudan)for honoring the Buddhas and spirits of the ancestora.The Japanese worsip both the Shinto deities and Buddhas.They believe that Buddhas and Shinto deiteies are essentially the same.(Hirakawa Akira;Buddhism and Religious Characterristics of the Japanese in Japanese Buddhism,1987,p.11)

(訳)
多くの日本の家庭には、氏神を祀る神道の神の棚(神棚)と仏と先祖の御霊を崇める仏教の祭壇(仏壇)の両方がある。日本人は、神道の神と仏をともに崇拝する。仏と神は本来同じであると信じているのである。
(解説)
日本では、寺と神社が同じ敷地内に置かれているケースを目にします。仏教と神道(しんとう)は、違う宗教なのに、何故だろうと疑問に感じた人もいることと思います。故司馬遼太郎は、ある対談でこう述べています。
 あの神仏混淆(こんこう)というのは、朝鮮人も中国人も笑いますね。あれだけはわからないという。だけど、ぼくはあれがいちばん自然じゃないかとつい思ってしまうくらい、われわれの生活に入っています。明治のときに神仏分離したやつはだれかと思って腹が立つくらいです。(司馬遼太郎・ドナルド・キーン『日本人と日本文化』昭和47年、p.162ルビ私)
このように指摘されていますが、実は、これを許容する根拠は、本覚思想というものが与えたものなのです。本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)と称する理論が広まるにつれ、神と仏は同一視されていきました。もともとは「インドの仏が、仮の姿をとって、日本の神として降臨(こうりん)した」という考え方に基づいているのです。本覚思想は、外国人研究者の関心も呼びます。ここでは、その中から、ストーンさんという女性研究者の著作を紹介しておきましょう。
(私訳)ほんの少し、中世日本宗教を齧(かじ)ったことのある人なら、天台仏教の「本覚(ほんがく)」説の途方もない影響に関して、最低でも1つの言及に出会う。疑いなくそうである。〔「本覚」とは〕、「一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(=すべての人間)は、本来、仏である」という説である。(Jacqueline I.Stone;Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism,1999,Honolulu,p.xi,ll.1-7)
もっと分かりやすいように、有名な書物から、関係個所を引いてみましょう。「祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)の響きあり」の名文句で知られる『平家(へいけ)物語(ものがたり)』は、仏教思想の宝庫でもあります。同書には、白(しら)拍子(びょうし)、祇(ぎ)王(おう)・祇女(ぎにょ)が登場します。彼女たちの有名な歌を読んでもらえば、本覚思想の骨格(こっかく)は一目瞭然(いちもくりょうぜん)でしょう。
 仏も昔は凡夫(ぼんぶ)(=ただの人)なり、われらも終(つい)には仏なり
 何れも仏性(ぶっしょう)具(ぐ)せる身を 隔(へだ)つるのみこそ悲しけれ
つまり、仏も我々も仏性という「仏に成る因」を持っているので、差はない、と述べています。無論、本覚思想には様々なヴァリエーションがあって、これだけがすべてではないのですが、その肝心(かんじん)要(かなめ)の理論は、この歌に出ている通りです。即ち、仏=人、神=仏というように、すべてを仏の世界に取り込むのです。だから、寺も神社もいっしょというわけです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?