新チベット仏教史―自己流ー

その4
次に、何度か示唆した『チベットの死者の書』の価値に関して、傾聴(けいちょう)すべき意見を紹介しておきましょう。述べているのは、ゲルク派の僧侶で、後に日本へ帰化したツルティム・ケサン氏です。
 本書はその表題が示すように、死者が次の生を受けるまでの存在である中有(バルドゥ)に於いて、後に残された者の唱える祈願の言葉をただ聞く(トェ)だけで修行や学問を要せずに解脱(ドル)するための方法を述べる書である。この表題が『チベットの死者の書』と呼ばれるようになったのは、恐らくエヴァンス・ヴェンツの英訳The Tibetan Book of the Dead or the After—Death Experience on the brdo Place(Oxford,1927)に由来するのであろう。しかしこの英訳も正しくない。確かにチベットでは本書は葬儀の場合に広く一般の人々に読まれるものとして人口に膾炙(かいしゃ)してはいるが、少なくともチベット最大の宗派であるゲルク派では本書の中有に関する記述を正当なものとは認めていない。従ってその呼称(略称)の通りに『中有に於いて聴聞のみで解脱する書』とでもするか、もし英訳に倣うとすれば『ニンマ派の死者の書』とでもすべきである。私がこの表題の和訳にこのようにこだわるのは、実は下記のような理由があってのことである。まだその事柄もよく理解できない少年時代に、当時一世を風靡(ふうび)した論争の噂を人伝てに聞いたことがあった。その論争の詳細は後年になって、私の直接の師ゲシェパルデン(dGe bshes dpal ldan)から詳しく教えられて理解することができた。その論争は、ゲルク派の学僧ゲシェシェルカルチェゼ(dGe bshes shel dkar chos mdzad)と、ニンマ派の学僧タクカル・カギュリンポチェ(Brag dkar bka’ brgyud rin po che)との間で、本書『バルドゥトェドル』の内容の当否に関して、書簡を以て交わされた。シェルカルチェゼの本書に対する主たる批判の一つは、その所が説くようにタントラを聞いただけで悟れるのであれば、修行や学問の必要がなくなってしまうであろう。そしてもしそのようなことを認めるならば、チベットに於いて人びとの尊敬を集めている行者ミラレーパなどの行跡が意味のないこととなってしまうであろう、というものであった。更にもう一つの決定的批判は、本書が正当な仏教書としての資格を欠いていることを指摘するものであった。即ち彼は本書にタントラの言葉として引用されている語が実は世親の『俱舎論』の言葉を改竄(かいざん)したものであることを明示し、もしそれがその書のいうように真にタントラからの引用であれば、その典拠を示すようにせまったのである。このように出典の提示を求められて返事に窮したタクカルの答えは、次のように滑稽(こっけい)極ま(きわま)るものであった。つまり彼によれば、本書はいやしくもチベット仏教の祖パドマサムババの著作である。そしてパドマサムババは不死なる人であり、遥か昔には阿難(あなん)の弟子であった。本書はその阿難から直接聞いたものである。故にたとえ現存のタントラの中にはその語がなくても、今は散逸したタントラの中にはそのように説かれていたに相違ないのである。従ってその語をタントラからの引用としたからと言っても何も問題はないと言うのであった。タクカルの強弁にも拘わらず、問題のその言葉が『俱舎論』の語の改竄であるというその指摘は、『俱舎論』を主要五科目の一つとして暗唱しているゲルク派の僧侶たちには極めて明白なことであった。そのような愚かしい返答をしたタクカルは人々の嘲笑を受けざるを得なかった。しかしその内容がこのようにいい加減なものであるにも拘わらず、真面目な仏教徒の心配をよそに本書は益々普及して行った。(ツルティム・ケサン「川崎信定訳『チベットの死者の書』」『仏教学セミナー』51,1990年、pp.85-85,ルビ私)
ツルティム氏は、この後、具体的に、改竄個所を指摘し、さらに『チベットの死者の書』が、先ほど触れた「埋蔵經」である点を具体例を挙げて批判します。最後に、氏は書評をこう締めくくっています。
 私は本書の和訳によって、チベットに関心を持たれる日本の読者がチベット仏教の全てをニンマ派と同様なものと誤解されないことを切に期待する。否むしろそれ以上に本書によってニンマ派の非仏教性を理解し、本来の仏教の在り方を考えて頂くための一助にして下さることを念願する。というのも私が尊敬し愛して止まない日本及び仏教界に於いても、しっかりした学問研究を軽視し、俗受けする安易な思想でこと足れりとする風潮が相当根強くはびこってきており、それが廷いては様々なまやかしの宗教の蔓延(まんえん)を温存し助長する一因となっているように思えるからである。(ツルティム・ケサン「川崎信定訳『チベットの死者の書』」『仏教学セミナー』51,1990年、p.88,ルビ私)
ツルティム氏は「ニンマ派の非仏教性」という厳しい言葉を使って持論を展開しています。アメリカ等では、ハリウッドスター達が、チベット仏教に興味を示していますが、こうしたツルティム氏の指摘を目にした時、どう反応するでしょうか?我々としては、今は、どの意見にも加担せず、様々な情報を比較検討していきましょう。
 

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