仏教余話

その69
明治38年の作文である。漱石が、煩悶し、座禅に身を投じた時と、隔たりはない。これも時代の雰囲気を感じるものとしてよろしかろうと、判断し、少し、長めに引用してみた。荻原博士の人物像もわかるし、当時の留学生の日常まで伝わってくるように思う。特に、最後に東郷艦隊の話を持ち出すあたりは、日露戦争と同時代の例えであることも知れ、面白いと思う。ところで、渡辺海旭という人物について、遺憾ながら、私は、最近まで、ほとんど、知るところがなかった。しかし、荻原雲来と並べて、彼の人と成りを論じた本が出て、自らの不明を恥じざるを得なくなった。彼について、詳しく調査した、西村実則氏は、その行状を、こう伝えている。
 氏の行動はすべて「信仰の発露」であり、「ひとたび渡辺君が顔を出す時、その醜い政争も平和な姿に立ちかえ」り「全く敵の存在を許さなかった」(高島米峰)とされる。その他、カルピス(サンスクリットで「サルピス」の変名)〔sarpisサルピスは、牛乳の上澄みのようなもの、それとカルシウムを合わせて、カルピスと名付けられた〕の命名者であり、またインド人チャンドラ・ボース、ビハリ・ボースを援助した新宿中村屋の相馬夫妻が渡辺に帰依し、羊羹名を「壺月羊羹」(壺月は渡辺の雅号)としたほどである。著作には『普賢行願賛の研究』(独文)、『欧米の仏教』、遺稿集『壺月全集』上下巻がある。書物としては少ないものの、「欧米では大著述をした学者と同等に或はそれ以上」(矢吹慶輝)とみられていた。
(西村実則『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』2012,pp.13-14,〔 〕内は私の補足)
また、こういう記述もある。
 〔ドイツの著名な学者、ロイマンの〕多くの門下生の中でも荻原雲来、渡辺海旭の二人は傑出していた。ロイマンは荻原の「技倆」に舌を巻き、渡辺海旭ともども「菩薩」と尊称していたことからも、両人の卓抜さが伝わってくる。(西村実則『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』2012,p.4)
極、簡単な紹介だが、簡単に無視出来るような人物ではないことが、わかると思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?