Tips of Buddhism

No.11
Gyokusenji has been situated at foot of the Dewa Sanzan for about 700 years,built sometime around the Kamakura period(1251 AD).It is said the priest Ryonenhomyo built Gyokusenji.He was regarded as the best disciple of the priest Dogen.Dogen was the founder of this branch of Buddhism known as Soto-shu(shu meaning sect)the same as practiced at Gyokusenji.The priest Ryonenhomyo was born in Korea and he learned his ascetic practices at Kinzan Temple in China.
(hints,Gyokusenji玉川寺、Dewa Sanzan出羽三山、Ryonenhomyo了然法明,Kinzan径山)(from Gyokusenji leaflet 2016)

(訳)
玉川(ぎょくせん)寺は、出羽三山(でわさんざん)の麓に、700年ほど、鎮座(ちんざ)している。鎌倉時代頃創建(1250年)された。了(りょう)然法(ねんほう)明(みょう)という僧が、玉川寺開山(かいざん)といわれている。彼は、道元(どうげん)の高弟と見なされている。道元は、曹洞宗(そうとうしゅう)(宗は派を意味する)として知られるこの仏教部派の開祖である。〔その曹洞宗は〕、玉川寺で、実参(じつさん)しているものと同じ〔宗派〕である。了然法明は、朝鮮生まれで、中国径(きん)山寺(ざんじ)にて修業した。

(解説)
旅行の折に訪れた古刹のパンフレット英文から引用した。ネット検索で、日本語の紹介も見ることが出来るだろう。しかし、英文とは若干違う。
さて、道元(どうげん)(1200-1253)は、言わずと知れた曹洞宗の開祖である。道元は、中国で如(にょ)浄(じょう)(1163-1228)の膝下(しっか)、悟りを得た。その間、朝鮮出身の僧との交流もあったであろう。ただ、了然法明(?-1308?)との関係は、はっきりしているわけではない。了然法明来日後に、両者は、はじめて会ったという説もある。
 了然法明は、修験(しゅげん)道(どう)のメッカ出羽三山とのゆかりも深く、影響力はそれなりに大きかったと思われるが、その人物・思想ともに謎の多い僧である。研究としては、佐藤秀孝氏のものが、最も詳細を極めている。佐藤氏は、論文の末尾で、こう述べている。
 法明が日本に赴(おもむ)いて後、南宋軍(なんそうぐん)と高麗軍(こうらいぐん)を併合した元国の連合艦隊による元寇(げんこう)(蒙(もう)古襲来(こしゅうらい))が起こり、その後、その南宋も元によって滅亡し、さらに高麗の地も激変の憂き目(うきめ)を見ている。そんな時代の大きな流れの中に南宋で学んだ高麗僧法明もまた翻弄(ほんろう)されたといえるだろう。あるいは法明もまた越前大野の薦(せん)福山(ぷくざん)宝慶寺(ほうきょうじ)に生きた中国僧寂(じゃく)円(えん)と同じように生涯にわたり帰れぬ故国を思いつづけた人であったのかも知れない。出羽の地から本海を挟(はさ)んで遥(はる)か対岸の朝鮮半島の高麗国を斫額(せきがく)しつづけたであろう法明の姿が偲(しの)ばれる。(佐藤秀孝「出羽玉川寺開山了然法明について」『駒澤大学仏教学部研究紀要』52,1994,p.240、ルビ私)
法明は確かに実在し、玉川寺のパンフレットでも、開山として紹介されている。しかし、実像は、わからないのである。このように、曹洞宗関係の人物にも、まだまだ解明すべき点は多い。例えば、『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』で知られる、懐奘(えじょう)(1198-1280)は、道元の教えを継いだが、元々は、日本達磨宗(だるましゅう)という異端視された組織の一員だった。初期の曹洞宗において、この達磨宗の影響は甚大(じんだい)であることは間違いない。とはいえ、その実態は、まだ未知なところも
多々ある。このことには以前も触れたが、この英文を切っ掛けとして、そういったところにもう1度、関心を抱いてもらうことを望む。


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