「倶舎論」をめぐって

XXXIII
割と最近のことであるが、このテーマを扱った書が、アメリカで出版された。サラ・マクリントック(Sara.L.MacClintock)『一切智と論理の修辞学』Omniscience and the Rhehtoric of Reason(Boston,2010)がそれである。著者の意気込みと研究の様子を、序文から抜粋してみよう。
 私は、若くて前向き志向だったので、〔一切智を扱えば〕、インド仏教の全範囲に対する疑問に取り組めると、単純に考えていた。ブッダの一切智の当初の論理、そしてその理論の発展の相方を、南アジア仏教の哲学的潮流と多くの文献を網羅して、探究するという博士論文を目論んだ。計画の始めに、『真理綱要』及びその注釈「難語釈」を見出した。本書の中核にある重要な作品である。その多面的な作品の最終章は、多岐に渡る議論と一切智の弁護である。私は、研究をそこからスタートしようと決めた。その時点では、同書の複雑さや洗練振りなど知る由もなかったのである。結局、研究がいくばくか進むと、このやっかいだが、魅力的な作品で、何が行われているのか、益々、理解に努めるようになったというわけだ。インド仏教における一切智の概念の歴史は、すでに書かれてはいたが、以降、多年に渡って書かれたのではなかった。多くの著作が手付かずで、不十分に研究されているのだった。その中には、中国語やチベット語だけで残っているものもある。本書は、それについての些少なる成果である。大いなるインド仏教の、一片のみを扱っているのだから。(Sara.L.MacClintock; Omniscience and the Rhehtoric of Reason,Boston,2010,pp.xiii-xiv)
こうして、アメリカ人特有の積極性で、著者は、『真理綱要』最終章「超感覚的事物を知る者の考察」(atindritartha-pariksa)を全訳するのである。
ともあれ、ミーマンサー学派のクマーリラの仏教批判は、なるほどと思わせるものが多く、仏教文献だけを見ていたのでは、気がつかないことにも、気が付かせてくれる。すべからく、仏教研究においては、外道と称される他学派の見解を忘れてはならない。少し、寄り道になるが、その点についての有益な指摘を紹介しておきたい。
 第一のグループでは、仏教は仏教としてのみとらえられる。まず仏教ありき、すべてはそこから始まりそして仏教に終わるのである。なかには、あたかも無人の荒野にいきなり仏教の大殿堂が出現し、という印象を与えるものすらある。概していえば、このグループの著者には、他分野(インド思想全般、哲学全般、宗教学全般)に寄り道、回り道をすることなく、学を志してから一貫して仏教(だけ)を研究対象としてきた学者たちが多い。いわゆる仏教学者といわれる人たちの大半がこれに当たる。そして、これは、あながち私の偏見とはいえないと思うが、この意味での仏教学者のほとんどは、僧籍にある人たち、あるいは人並みはずれて熱心な仏教信者たちである。この人たち「にとって、仏教以外の思想、宗教、宗派は「外道」である。「外道」という概念規定のもとにあっては、それらはみな「仏敵」という色合いを帯びる。差があるとすれば、「仏敵」ということを露骨に表現するかしないかという点にあるといえる。第二のグループでは、(インド)仏教は、あくまでもインド思想、宗教、哲学のなかの一つとして扱われる。紀元前五世紀ごろから紀元後の一先年紀にわたって、思想史上、仏教はほとんどつねに主導的な役割を果たした。仏教は、今日のヒンドゥー教思想の骨格の重要部分を構成している。しかし、その仏教も、孤高にして超絶という態のものではけっしてなく、他派の思想との対立と融合のなかで生成発展していったのである。このグループでは、仏教はそのときどきのインドの思想的土壌のなかに位置づけられて、はじめてその真の姿を現すとされる。この視点からすれば、仏教思想のなかに、「外道」の思想が認められたとしても、それは別段、意外なことではない。仏教から、単純な引き算的発想で、「外道」と共通する要素を取り除いていけば、猿のラッキョウの皮剥きではないが、おそらくほとんど何も残らないであろう。重要なのは、「外道」と共通する要素をふんだんに抱えている仏教が、どのようなわけでやはり仏教といえるかを見きわめることである。あらかじめお断りしておかなければならないのは、私が、基本的に、この第二のグループの視点に立とうとするものだということである。…〔インド思想研究の先達〕中村〔元〕博士の研究、著作は、第二グループを代表するものだというだけでなく、それを先導して今日に至っている。このことは中村博士が、わが国における比較思想研究という分野での、最大のパイオニアの一人であったし、また、今日もなお、この分野の研究の第一人者であることと表裏一体である。(宮元啓一『仏教誕生』1995,pp.004-006、〔 〕内私の補足)
宮元博士のご指摘は、仏教に携わる者として、肝に銘ずべきであろう。

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