仏教余話

その132
ついでに、大乗非仏説論の日本における先駆けとなった、ある江戸時代の人物についても述べておいた方がよいだろう。水野弘元博士の名著から、やや詳しく、抜粋してみたい。
 中国仏教の影響のもとに発達した日本の仏教では、初めから大乗経典を仏の真説として認め、大乗が仏説ではないと見るものはなかったのであります。ところが徳川時代の中期以後になりますと、仏教者以外の方面から、大乗は仏説ではないという議論が起こるようになりました。その最初の主張者は富永仲基(一七一五―一七四六)という人であります。どうしてこの人が大乗非仏説を唱えるようになったかということから見ていきたいと思います。富永仲基は大阪の商家に三男として生まれました。家は代々醤油醸造を業とし、祖父の代までは商売も繁昌していましたが、父の代になると、父母が共に学問風流に熱心であったためか、仲基の青年の頃は家運も傾いていたようです。このような両親のもとにあったので、仲基は幼い頃から「四書」「五経」などの書を読み、十歳の時には、父が創設した懐徳堂という塾に入って、三宅石庵という儒者に陽明学を学びました。生まれつき博覧強記の俊童でありましたから、十五歳の頃には、儒教や諸子百家に関する古来の学説はすべて誤っていることを指摘した『説蔽』という書を著したといわれています。これは今日から見ればきわめて合理的な学説でありますが、当時の学者からすれば、仲基の主張はとんでもない異端邪説であるとされたのであります。…二十歳のころには結婚したが家からの仕送りもなく、生活のために京都に出て、宇治の万福寺の「黄檗版大蔵経」の版木刷りの仕事をして妻子を養ったようです。この黄檗版というのは、有名な鉄眼禅師が五十余年前に、中国の「万暦版大蔵経」によって苦心して作られたものであって、六万枚に及ぶ版木から成る千六百余巻の木版の一切経であります。これを一枚一枚墨を塗って紙に写すのが版木刷りであります。この仕事をやっているうちに、漢学の素養の豊かな仲基は一切の経典を読むことができました。それは単に読むだけでなく、そこに書かれている内容を理解し、またその中に出てくる一々の語句や事物などを丹念にメモにでも取っていたのではないかと思われます。そしてそれらの思想や語句や事物などを比較することによって、仏教の経典には前後発達の層があり、単純なものから次第に複雑なものへと発展して行ったという、いわゆる加上説を発見し、これをまとめて『出定後語』という本を著したのです。ここに『出定後語』とは、仲基自らが禅定に入って経典成立に関する実情を知り、禅定から出て後にこれを語るという意味だと受け取られます。本書は彼が三十二歳で世を去るその前年に出版されました。…それは今日の学問的立場から見ても、驚くべき精密さと正確さをもって論ぜられています。この大乗非仏説の論が出ても、当時の仏教者からは反対論も出なかったようです。…仏教側から反駁所が現れるようになったのは、本書が出てかなり久しい後のことでありますが、それらも対等の反駁とはなり得なかったのであります。むしろ本書は仏教外の人に大きな衝撃を与え、服部天遊という学者は『出定後語』を読んで関心し、自分でもさらに経典を研究したらしく、、『赤裸々』とおう本を著して、『出定後語』の趣旨を簡潔に、しかも和文で分かりやすくしたのであります。…国文学者の本居宣長は『玉勝間』の中に、仲基の『出定後語』のことを紹介していますが、平田篤胤はこれを読んで、苦心の末、ようやく『出定後語』を手に入れ、これを見て大いに感激し、『出定笑語』という七巻から成る本を書きました。国学者であり神道家でもある平田篤胤は大の仏教嫌いでありましたから、『出定後語』は仏教を攻撃し、仏教の悪口を書くには、もっともよい参考書となったのであります。彼の『出定笑語』という題名自体が仏教を馬鹿にして罵倒したものであり、その内容も嘲笑と憎悪に充ちたものであって、『出定後語』のように学問的なものではありません。明治維新後の日本各地における廃仏毀釈(仏教排斥)の運動は、平田篤胤の門人たちによって起されたものであって、仏教嫌いの影響によるものであります。(水野弘元『経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史』平成16年、pp.35-40)
明治以前の大乗非仏説論とその後世への影響を具間見た。話のついでである。しかし、この問題は、簡単には見過ごせない。我々、日本人の周りに一般的にある仏教は、大乗仏教に他ならないからである。

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