「倶舎論」をめぐって
LXI
また、松田和信氏により、極最近、有益な情報が示されてているので、追加紹介しておこう。
今回発見された『真実義』の全体は、3巻(つまり3束)の写本に分けて書写されていたと思われる。そのうち第1巻(Ms.A)と大3巻(Ms.C)は完全な形で現存するが、中観の第2巻(Ms.B)は丸ごと失われている。…あまりにも浩瀚な注釈書であるため(ヤショーミトラ疏の約2倍の長さがある)、解読はまだ第1章「界品」すら終えていないが、研究成果の一部については、小谷信千代、秋本勝、福田琢、本庄良文、松田和信、箕浦暁雄[2009]、箕浦暁雄[2010]参照。なお解読のための研究会は現在大谷大学において公開の形で行われている。(松田和信「五蘊論スティラマティ疏に見られるアーラヤ識の存在論証」『インド論理学研究 I 松本史朗教授還暦記念号』平成22年、p.198の注14)
松田氏の報告にあるように、小谷信千代、秋本勝、福田琢、本庄良文、松田和信、箕浦暁雄「新出梵本『倶舎論安慧疏』(界品)試訳」『大谷大学真宗総合研究所研究紀要』26,2009,pp.21-28が刊行されているようである。松田氏は世親の『五蘊論』Pancaskandha(パンチャスカンダ)に対するスティラマティの注釈を、最近発見されたサンスクリット原典の1部を使い訳している。その過程で、先に極簡単に紹介した、説一切有部の名の由来ともなった、著名な説「三世実有論」に関する記述に出会った。次のようなコメントを述べている。
ここ〔スティラマティの『五蘊論』注〕で三世実有説が取り上げられて批判される理由は、滝川郁久[1994]に詳しい。三世実有説に関して、今まであまり知られていなかった資料が梵語テキストを伴って登場したともいえる。今後、『倶舎論』第5章「随眠品」における三世実有説と比較して分析する必要があろう。(松田和信「五蘊論スティラマティ疏に見られるアーラヤ識の存在論証」『インド論理学研究 I 松本史朗教授還暦記念号』平成22年、p.201の注24、〔 〕内は私の補足)
松田氏によって、三世実有論の新たな課題が示されたのである。なお、氏のいう滝川氏の
論文とは、滝川郁久「『五蘊論』の阿羅耶識存在論証―特に三世実有説に対する安慧註の論難についてー」『文学研究科紀要』早稲田大学大学院文学研究科、別冊21(哲学・史学篇)
pp.11-21である。重要な論文に思われるが、私は未見である。他に、松田氏は、次のような貴重な見解も提示している。
スティラマティが〔仏教論理学者ディグナーガの〕『集量論』に対する注釈書も著した可能性が高いのではないかと筆者は考えている。(松田和信「五蘊論スティラマティ疏に見られるアーラヤ識の存在論証」『インド論理学研究 I 松本史朗教授還暦記念号』平成22年、p.198の注16、〔 〕内は私の補足)
松田氏の指摘は、『倶舎論』研究における仏教論理学の不可欠性を再度、強く認識させるものであろう。同時に、注釈を使って『倶舎論』研究をする場合の、危険さも示しているのである。このことは、いくらでも、強調しておかねばならないが、その事情は、もう少し、後に、述べよう。松田氏の見解を導いたスティラマティ注『真実義』の1文を示しておこう。
manas tu na ttrigunam iti pramanasamuccayopanibamdhad vijnyeyam「しかし、意識は、〔サーンキャ学派の説く〕3性質ではないと、『集量論』解明(pramanasauccayopanibambha)〔プラマーナサムッチャヤウパニバンダ〕から知るべきである。(松田和信「五蘊論スティラマティ疏に見られるアーラヤ識の存在論証」『インド論理学研究 I 松本史朗教授還暦記念号』平成22年、p.198に原文掲載、訳は私)
ウパニバンダが注釈書名でなく、『集量論』という著作という意味で使われていた可能性も否定出来ないが、注目すべき1文であろう。
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