Tips of Buddhism

No.65
The Buddha himself repeatedly said that he had proclaimed and taught nothing but the doctrine of duhkha,’suffering’,and its removal,nirvana.He deliberately refused to answer or discuss any metaphysical or eschatological question that relates to the notion of soul or survival after death. (B.K.Matilal,The collected Esssays of Bimal Krishna Matilal,NewDehli,2002,p.395)(duhkha苦、nirvana涅槃、eschatological終末論的)

(訳)
当のブッダ自身は、繰り返し以下のように言った。苦の教義そしてその除去たる涅槃(ねはん)を宣言し、教えたに過ぎない、と。彼は、故意に、何らかの形而上学的(けいじじょうがくてき)、終末論的疑問に答えたり、議論したりするのを避けた。〔その疑問〕は我の観念や死後の生に関わるものである。

(解説)
釈尊は、哲学的問題に関して、沈黙を守ったと言われている。これを「無記(むき)」と言う。仏教の立場を示すものとして、よく言及される。以下に示すのは、仏教のライヴァル、ジャイナ教の開祖が同じような問題に対して、どのような態度を取ったかを伝えるものである。
 仏陀が答えず沈黙した問いに「世界は常住(じょうじゅう)であるか無常(むじょう)であるか、有限(ゆうげん)であるか無限であるか云々(うんぬん)」があった。このような問いにジャイナ教はどう対処したか。幸い『アーヤーランガ』(一・八・一)にそれにふれた一節が残っている。
  世界は存在するかしないか、世界は常住なのか常住でないのか、世界は有始なものか無 始なのか…このように互いに対立し自説を主張しあっている。これは論理的でないと知りなさい。このように彼らの教えは正しいものではない。世尊[ジャイナ教の開祖](マハーヴィーラ)によって説かれたように答えるか、さもなくば沈黙を守りなさい。
 この中で沈黙を守るというのは仏陀の立場に通じるものとして興味を引くが、世尊が説いたようにとは何を意味するか、これについて確かなことはわからない。しかし次の例はその一つの解答の試みにはならないか。『ヴィヤーハパンナッティ』(二・一)は同様の問いに対して相対(そうたい)主義(しゅぎ)に立つ解答を行う。
   世界は有限であるか無限であるか。〔霊魂・成就(じょうじゅ)・成就者についても繰り返す〕世界は〈実体的には〉有限、〈場所的には〉有限、〈時間的には〉無限、〈情態的には〉無限である。〔霊魂以下についても繰り返す〕
 一つの対象について複数(この場合四つ)の視点を用意して相対的に判断する仕方は、〈スヤード・ヴァーダ〉と変わるものではない。〈ある点からすれば〉(syad)が具体的に挙げられたということである。…[ジャイナ教の開祖、マハーヴィーラ] かれはこうして不可知論(ふかちろん)と無記説(むきせつ)とを避け得たと言えるであろう。…総じてかれは個々の自然現象を分析観察して、知識を総合する素質の豊かな人であったことを聖典の記述は証明している。業(ごう)と解脱(げだつ)の独特のメカニズムや相対主義はその現れであろう。その点、瞑想的(めいそうてき)哲学的な仏陀とは性格を異にする。(谷川泰教「原始ジャイナ教」『岩波講座 東洋思想 第5巻 インド思想 1』1988,pp.81-83,ルビ・[ ]私)
上で度々言われているように、ジャイナ教の特質は「相対主義」にある。原語ではsyad-vada(スヤード・ヴァーダ)と言う。英語でmay be-theory等とも訳される。「視点を変えると、こういう見方も出来る」として、一見結論を避けるように写る。仏教で無記というと『毒(どく)箭(せん)経(きょう)』のブッダの沈黙が取り挙げられるケースが多いので、違う資料を提した。

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