「倶舎論」をめぐって
LXXXVIII
最近、中国・日本の研究状況を簡潔にまとめた論文を見つけたので、ここで、紹介しておこう。本多至成氏は、江戸期の様子を、以下のように、記している。
まず、倶舎学における教科書的啓蒙書としては『七十五法名目』が挙げられます。著者は上総の倶舎刑部阿闍梨ともいわれていますが、判然としません。成立は室町時代末期頃ともされています。内容は五位七十五法を中心とした重要な仏教用語の定義集であり、その典拠の多くを『倶舎論』本頌と〔円暉の〕「頌疏」に拠っています。コンパクトなため江戸から明治にかけて倶舎学入門書として重んじられ、各宗の檀林や学林の教科書としての役割を果たしていました。その注釈も多く書かれました。冠注を施した『首書七十五法名目』が寛文八年(一六六八)に刊行され大いに流行したほか、寛文年間には注釈が相次いで刊行されています。…次に、江戸期の倶舎研究の特徴であるもう一つの側面、批判的教学研究についてです。従来の倶舎研究が「光記」や「宝疏」の註釈を尊重しそれに沿った解釈法だったのに対し、この時代には、〔眞諦の〕旧訳などの関連書を広く参照しながら、世親の本論自体を批判的にみる研究姿勢へと変化を見せます。そのような批判精神をもって『倶舎論』を註釈する嚆矢は、浄土宗の湛慧(一六七五 ― 一七四七)の『倶舎論指要抄』三十巻です。これは〔散逸して1部しか残っていない、神泰の〕「泰疏」を再評価しつつ「光記」と「宝疏」の異議を批評しています。また法幢(一七四○― 一七七○)の『倶舎論稽古』二巻は大変ユニークな註釈であり、『倶舎論』に引用される経典の出所を考察していて、シャマタデーヴァの『ウパーイカー』にも似た書物です。その中にあって批判的な倶舎論註釈の白眉は、真言宗豊山派の快道(一七五一 - 一八一○)が著した『倶舎論法義』三十巻と『倶舎論略法義』五巻です。快道は『倶舎論』が『阿毘曇心論』や『雜阿毘曇心論』を種本として作られたことや、有名な「破我品別撰説」を唱えています。破我品別撰説は、『倶舎論』第九章「破我品」には本頌がなく内容的にも前八章とは異質である点から、本論とは別に著されたことを証明したものです。また他の注釈と違って「光記」や「宝疏」に頼らず、その理由を、世親は六足論や発智・婆沙によって『倶舎論』を著したのであって、普光や法宝の註釈によった訳ではないと述べています。このような明快な批判の眼は、近代の仏教学者の先駆けとも言えます。(本多至成「確かな継承―倶舎学の伝統―」『倶舎 絶ゆることなき法の流れ』青原令知編、2015,pp.409-412,〔 〕内私の補足)
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