仏教余話

その12
兎に角、オルコットは日本仏教徒の希望の星となり、オルコット招聘運動が盛り上がってくる。この運動の中心となった1人に平井金三という在野の仏教信者がいた。彼は、英語が堪能で、同志社に対抗して「オリエンタル・ホール」という私塾を営んでいた。平井は、「日本語はインド系の言語である」という奇妙な説を提唱したり、心霊研究にも携わるなど、かなり特異な活動をしたが、明治26年(1893年)のシカゴ万国宗教会議にも出席し、そこにおいてキリスト教を攻撃するなどの活動も行っている。その平井が、オルコット招聘のためにインドに送り出した人物が、野口復堂という人である。彼は、明治21年(1888年)にインドに渡り、翌年、オルコットを連れて帰国する。彼は、変わった経歴の持ち主で、寄席で講談師をしていたということである。
 さて、オルコット(Henry Steel Olcotto,1832-1907)は「神智学協会」(The Theosophical Society)というオカルト教団の指導者だったことは、最初に述べた。しばらく、神智学協会にまつわる状況を述べておいた方がよいだろう。オルコットの盟友は、前にも触れたマダム・ブラバツキー(Herene Petrova Blavatsky,1831-1991)というカリスマ的なロシアの婦人である。彼女はオカルト崇拝者の間ではHPBと呼ばれ、各国の心霊サークルに出入りしていた。
折しも、1840年台、欧米各国ではポルターガイストやラップ現象が大いに話題となっていた。アメリカのスピリチュアリスト(心霊主義者)の人口は200万人を越えていたということなので、オカルトやスピリッアリズムは、当時も、大流行だったようである。それ故、神智学協会を生み出す素地は、民間に既に充分にあったのである。19世紀というと科学万能の時代のように思われがちであるが、科学に裏付けられた神秘主義、つまり科学的なオカルトのような存在が求められていた。この要求に答えたのが、オルコットやブラバツキーだったわけである。ブラバツキーの代表的著作『ヴェールを脱いだイシス』(The Isis unveiled)は、時代の要求に答える見事なものであった。本書は、進化論などの科学思想を批判し、科学と宗教の融合を目指すことを宣言した。その書で、ブラバツキーは仏教を高く評価している。やがて、アメリカで産声を上げた神智学協会は、インドに移る。インドには神智学協会に同調する団体があったからである。インドでの様子を伝える論文を引用してみよう。
 インド移住後、彼女〔ブラバツキー〕はチベットのマハトマ、マスター、あるいは阿羅漢と呼ばれる超人たちと交信し、その超自然的な力で守られていると主張していた。しかも、そのメッセージが書簡や電報という物理的な証拠をもって出現していた。彼女の信奉者でインドの新聞記者であった神智学徒A・P・シネットは、彼女の周辺に起きる超自然現象を中心に『隠された世界』(Occult World)を執筆、1881年に発表して英米でベストセラーとなっている。さらに2年後、マハトマの更新をもとに、「すべての宗教や哲学が部分的に有する真理のもとになった秘密の教義」をまとめた『秘密仏教』(Esoteric Buddhism)を発表している。バラバツキーは神智学=チベット密教というイメージを演出していた。さらに太古の真理からの歴史的正当性を強調するかのように、1888年に彼女が発表した『秘密の教義』(Secret Doctrine)では、「ヅヤンの詩句」という超古代の文献が典拠とされていた。しかし、これについては二つの批判があがった。ひとつは霊的現象についてであり、1884年にイギリスの心霊研究協会が神智学協会本部の綿密な調査を行い、本部で定期的に出現したマハトマのメッセージは詐術であると断言した。また、そのチベットの隠れたマハトマや秘密の教義については、〔著名なインド学者〕マックス・ミュラーが痛烈な批判を加えている。…神智学の内実は西洋オカルティズムと東洋宗教の寄せ集めであるという指摘は、正当なものである。確かに、神智学の教義は、チベットのマハトマではなくブラバツキーによって編集されたものであろう。しかもそこに心霊現象と疑似古代文獻で権威づけしたという点で批判され、しかもいまだに批判され続けているのも無理からぬ話である。ただし西洋秘教思想に東洋思想をもたらし、欧米人の東洋思想への入口の役割を果たしてきたのも事実である。(吉永進一「オルコット去りし後―世紀の変わり目における神智学と“新仏教徒”」『近代と仏教』41,2012,p.79、〔 〕私の補足)

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