新インド仏教史ー自己流ー

第6回 シャカ以降の仏教―分裂―
その1
 シャカの死後、結集(けつじゅう)が開かれ、教えの共有がなされました。その後、各地に広まった仏教徒同士は、必ずしも一枚岩(いちまいいわ)ではありませんでした。100年後には、争いが生じ、第2結集が開かれたと伝えられています。論点は戒律(かいりつ)に関するものであったようです。井上(いのうえ)博文(ひろふみ)氏は、こう綴(つづ)っています。
 〔伝えられる〕第二結集記事は、ブッダなき後百年たち、〔僧の集団〕サンガの自主運営の中で、ブッダの定めた律の解釈をめぐって争いが生じることは不可避(ふかひ)であったろうから、サンガ内で争いの鎮圧(ちんあつ)と破(は)僧(そう)の回避(かいひ)をブッダがいなくとも示した記事として設定されたと考えられる。(井上博文「第二結集の研究」『仏教学研究』62/63,2007,p.129、ルビ・〔 〕私)
我々は、伝えられている文献を通して、当時の様子を推測するしかありません。文献間にも違いがあります。それ故、第2結集に対する見方も様々です。田中(たなか)純男(すみお)氏は、井上氏とは異なる視点(してん)を示してくれます。少々、長いですが、有益(ゆうえき)であると思いますので、以下に引用します。
 釈尊(しゃくそん)の言葉は、初めは古マガダ語に他の方言が混淆(こんこう)した古アルダマーガディー語で語られ、伝承(でんしょう)されたと考えられるが、釈尊の時代に続いて、マガダはシシュナーガ、ナンダと王朝(おうちょう)を経(へ)るごとに領土も拡張し、時の経過とともに、いわゆる共通語も変化を被(こうむ)ったであろう。それがこの時代に至(いた)って、パーリ語という形式に集約されたといえる。言葉を代えれば、チャンドラグプタの帝国が誕生することによって、釈尊の言葉は、一つのまとまりのある宗教世界を構築(こうちく)しうる言語へと再生したことになる。パーリ語という言語によって、それまで地方分散型であった言説(げんせつ)が集大成(しゅうたいせい)され、分類され、再編されていく。これは新たな仏教世界の創造のようでもある。少なくとも伝承をまとめていこうとした西の人たちにとっては、その行為は釈尊の世界を改めて構築し直していく作業ともなったのではないか。この作業をとおして自分たちの立場を鮮明(せんめい)にしていく。第二結集という出来事をかりて、東西対立の構図を描き、自分たちの勝利を宣言する。アーナンダとの直接の関係を強調することによって、釈尊その人と直(じか)につらなっていることを表明する。こうして自分たちが釈尊の正当な後継者(こうけいしゃ)であることを宣言する。釈尊が入滅(にゅうめつ)し、その後チャンドラグプタが即位(そくい)しマウリヤ帝国を樹立(じゅりつ)するまでの時代の政治状況と合わせて、仏教教団の変遷(へんせん)を一瞥(いちべつ)してみた。各地に存在する教団が、自己の正当性を主張していくなかで、西の東に対抗する意識が異様に思えるのである。その理由は今後の課題としたいが、少なくともこの時代、マガダ国の版図(はんと)が拡大していくにともなって、東西の教団の立場に大きな相違が生じてきていたのは確かなようである。(田中純男「アショーカ王以前の仏教教団」『智山学報』79-65,2016,p.59)
このように、田中氏は、時代背景に中に、第2結集を位置づけてみせました。やはり様々な思惑(おもわく)が渦巻(うずま)いて、真実の姿は捉えにくそうです。オーソドックスな説明を見てみましょう。

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