森鴎外と因明

その2
鴎外の真意あるいは彼の因明理解について、深く詮索する余裕もないが、最近の研究では、聖教量の否定は、陳那の業績と評されていることは事実である。いくつか代表的研究者の言を見てみよう。陳那研究の先頭を切った観のある、北川秀則氏は、以下のようにいう。
インドの諸哲学学派においては、正しい認識を獲得するための手段となるものを「量(pramana)」と呼び、これには学派によって異なるが、現量(pratyaksa,=知覚)、比量(anumana,=推理)、声量(sabda,=聖人の教え)〔聖教量〕、譬喩量(upamana,=類推)等色々のものが数えられていた。然るに陳那はこれらの諸量はすべて現量と比量の中に摂められるべきものとし、その知識論をこれら二量の上に建設したのである。さて陳那が量を現比二量に限ったこと、就中声量〔聖教量〕に独立の量としての資格を認めなかったことはその徹底した論理主義のあらわれとして勿論高く評価されるべきであるが…(北川秀則『インド古典論理学の研究―陣那(Dignaga)の体系―』1973 rep.of 1965,p.9、〔 〕内私の補足)
このように、聖教量否定を陳那の一大業績としているのである。更に、チベット語訳と様々な写本を用いて、陣那研究を大きく前進させた、服部正明氏は、こう述べている。
ディグナーガは、聖教量と譬喩量を推理に含め、現量と比量を正しい認識のただ2つの手段と認めたのである。
Dignaga includes sabda and upamana in anumana,and admits prtyaksa andanumana as the only two means of valid cognition(Masaaki Hattori,Dignaga,On Perception,being the Pratyaksapariccheda of Dignaga from the Sanskrit fragments and the Tibetan versions,Cambridge,Massachusetts,1968,p.79)
服部氏は、その証拠として、陳那の『因明正理門論』Nyaya-pravesaの漢訳を引用している。鴎外時代も披見可能であった書であろう。以下のようなものである。
 唯有現量及與比量。彼聲喩等攝在此中。故唯二量。3b/10-11(ただ、知覚(現量)と推 理(比量)だけがある。かの聖教量(聲)や比喩量(喩)は、その中に含まれる。拙訳)
また、現在最も陳那に詳しいと思われる、桂紹隆氏は、インド全体を視野に入れ、次のようにいう。
何種類の認識手段を認めるかという点で、インド哲学諸派は意見を異にしていた。唯物論者であるチャールヴァーカ派のように、知覚のみを確実な認識手段とする者から、バーッタ・ミーマーンサー派のように六種の異なる認識手段を認める者まで、さまざまであったが、ディグナーガ当時には、知覚と推理に加えて、証言(sabda/agama)〔聖教量〕と比定(upamana)とを認めるニヤーヤ派の見解が、もっとも広く受け入れられていたようである。ディグナーガによれば、知覚と推理のみが確実な認識手段であり、証言〔聖教量〕や比定などは推理の一種にほかならず、独立の認識手段ではない。(桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教9-認識論と論理学』昭和59年、所収、p.106,〔 〕内私の補足)
何れにしろ、「鴎外と因明」は意外な組み合わせであろう。

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