新インド仏教史ー自己流ー

その3

さて、三島をはじめとして唯識を高く評価する人は多いけれど思想的評価は高いばかりではありません。唯識の礎(いしずえ)を築いたとされる『解深密経』などの文献に対しても、その欺瞞性(ぎまんせい)をついて、次のような厳しい裁定(さいてい)を下している場合があります。

『解深密経』(Samdhunirmocana-sutra)の登場はインド仏教思想史の展開の上に画期的(かっきてき)な意味を持つ。正真(しょうしん)正銘(しょうめい)の解釈学(かいしゃくがく)(Hermaneitik,hermsneutics)を始めて明確な意識をもってその思想史に提供したのがこの経典だからである。本書で取り上げるこの『解深密経』中の二章、すなわち「一切(いっさい)法相品(ほうそうほん)」と「無自性相品(むじしょうそうほん)」とは、その解釈学中でも白(はく)眉(び)をなす。とりわけ後者は、「三転(さんてん)法輪(ほうりん)」という、仏教の経典の展開を三段階に区分する方法によって、自らの思想的立場を表明(ひょうめい)したものとして有名である。…『解深密経』が自ら最終的(さいしゅうてき)了(りょう)義経(ぎきょう)〔完結した意味を説く経〕であるとの自覚をもって現れた時に、これ以前に確固としてすでに存在し、その名声ゆえにそれに対して明らかな対抗意識を燃やしながらも、否定しきれずに換骨奪胎(かんこつだったい)する方向で生かさざるをえなかった経典こそ『般若経』にほかならない。言い換(か)えれば、『解深密経』は、自らが大乗経典の白眉とも認められた『般若経』の後に登場したという事実に訴えることによって、『般若経』を相対的(そうたいてき)に未了(みりょう)義(ぎ)〔未完成の意味を説く経〕の位置に落としめ、『般若経』の「秘匿(ひとく)の開示(かいじ)」〔=解深密〕を行うという解釈学の樹立(じゅりつ)を企てて、自分の方が生き残ろうとした経典だと見(み)做(な)すことができるのである。(袴谷憲昭『唯識の解釈学『解深密経』を読む』1994,pp.5-14、ルビ・〔 〕私)
難しい内容なので、少し解説を加えましょう。『解深密経』は『般若経(はんにゃきょう)』や龍樹(りゅうじゅ)の「空」への対抗(たいこう)意識(いしき)を表明したものとされています。それを明確に示すのが「三転法輪」説です。法輪とは仏の教えのことです。それを三転、つまり3段階で説いたと主張しています。第1番に、小乗の教えが説かれましたが、それは実在性(じつざいせい)を堅(けん)持(じ)した「有(う)」という面を持っていたといいます。そこで、2番目に、有を否定する「空」の教えを説いたとされます。しかし、すべてを無実体とする「空」の教えも不完全とされます。そして最後に登場するのが「有」と「空」の欠点を解決した唯識を説いたとするのが「三転法輪」です。唯識は文字通り、識=心のみが実在するとします。これが「有」の側面です。しかし、心以外のもの、例えば、目の前のテーブルやコップなどは「空」であるとします。これで「空」の面もクリアしたとします。それ故、「有」と「空」の両方を完備した唯識が最終的な教えであると宣言(せんげん)したのです。時代状況にも触れておきましょう。前回、中(ちゅう)観派(かんは)を見てきた中で、初祖(しょそ)の龍樹の段階では、中観派はまだ成立していなかったことに言及(げんきゅう)しました。バーヴィヴェーカという人物が明確に中観派を打ち出しました。実は、それ以前に唯識の台頭(たいとう)があり、それを強く意識したバーヴィヴェーカは、唯識派に対抗して、中観派を言い出したのです。後にインド仏教がその姿を消すまで、両学派の論争は続き、決着を見ることはありませんでした。両学派の争いを俯瞰(ふかん)する研究を紹介しておきましょう。
 空性は一般に非存在であり、否定的な性格のものである。これはおそらく徹底的(てっていてき)な否定の極限(きょくげん)においても、なお否定しきれない究極的な実在として理解されるべきであろう。例えば、それは否定しているという事実を否定しえないという状況に似ている。それは否定のただ中に見出される肯定であり、否定の中に見出されるが故に真の有である。〔唯識の論書〕『中辺分(ちゅうへんふん)別論(べつろん)』一・三が空性の定義を説いて次のように言うのは、恐らく上述の考えに従うものであろう。実に(主観・客観の)二つの無であることと、(その)〔主客の〕無〔の基盤である、心・識そのもの〕の有であることが空の相である。このように、空性は「無」のみならず「無の有」を含む。そして、これこそ瑜伽行派の解釈の特徴であることが明らかである。しかし、「無の有」を付け加えるこの考え方は、後代の中観派によってはげしく攻撃された。後者によれば、空性の真の意味は「無」であり、徹頭徹尾(てっとうてつび)ただ「無」である。「無の有」を付け加えることは、不必要であるだけでなはなく、自己(じこ)矛盾(むじゅん)の故に不合理である。…存在と非存在という二重性があればこそ、「空性」は、「煩悩則(ぼんのうそく)菩提(ぼだい)」「生死則(しょうじそく)涅槃(ねはん)」・・・等々の大乗の古い格言(かくげん)の底に流れる原理となるのである。〔主観と客観という人間の認識構造、即ち〕虚妄分(こもうふん)別(べつ)と空性の間に見出される二重構造は、輪廻(samsara)と涅槃(nirvana)が一致(いっち)し、不二(ふに)であることを現している。世界は「空」であり、かつそれがこの二重構造を有することが理解されないならば、これらの大乗的格言は、単に矛盾に満ちた愚(おろ)かしいことばに止まるであろう。(長尾雅人「空性に於ける「余れるもの」」『中観と唯識』1978所収、p.554,ルビ・〔 〕私)
わかりにくいでしょうが、この派の世界観を知ると幾分(いくぶん)、理解しやすくなります、その世界観は、三性(さんしょう)説に端的(たんてき)に表れています。唯識では、煩悩の世界・ニュートラルな世界・悟りの世界の3つに分けて世界を描いています。上の文にあった「虚妄分(こもうふん)別(べつ)」が「ニュートラルな世界」に相当します。虚妄というレッテルを張っているのですから、間違っているようですけれど、主客の煩悩を離れたとしても、その基盤である心・識は存在するとします。「虚妄分別」は煩悩と悟りの世界を揺れ動(ゆれうご)く、とても微妙(びみょう)な位置にあります。そこを経由(けいゆ)して、はじめて悟りの世界に入ることが出来ると考えたわけです。煩悩と悟りとの橋渡(はしわた)し的存在を強く求めたのです。極めて、現実に即した修行論を展開したのです。


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