新インド仏教史ー自己流ー

第4回 シャカの生涯と思想1
その1
まず、シャカの生涯を見てみましょう。平川(ひらかわ)彰(あきら)氏の解説から引用してみます。
 釈尊(しゃくそん)〔=シャカ〕は若き日には、なに不自由ない豊かな生活を送ったという。長じてヤショーダラ(Yasodhara)と結婚し、一子ラーフラ(Rahura、羅(ら)喉(ご)羅(ら))をもうけたが、深く人生に悩み、二十九歳のとき家族を捨てて出家し、遊行者(ゆぎょうしゃ)の群れに身を投じた。釈尊は生まれつき瞑想的(めいそうてき)な性格を持っていた。まだ家にあったとき、父(ちち)王(おう)に従って農耕の祭りのため野外に出たときにも、人びとから離れて、樹下(じゅか)に坐禅をなし、初禅(しょぜん)の境地に入ったと
いう。あるいは農夫が掘り起こした土の中から虫がはい出たとき、舞いおりた鳥がその虫をついばんで飛び去った。それを見て釈尊は生物は互いに傷つけ合うことを痛感(つうかん)した。人びとは醜(みにく)い老人を見て嫌悪(けんお)を感ずるが、何人(なんびと)も老人になることは避けられない。何人も
病気の苦しさや病人のきたならしさを望まないが、しかし病気になることも避けられない。人びとは死を恐れ、死を望まないが、何人にも死は必ずやってくる。若き日の釈尊が、この生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)の恐れに思いをひそめたとき、若さにあふれる身体から、一切の歓(よろこ)びが抜
け去ったという。後世の伝説によれば、釈尊は父王の宮殿から遊(ゆう)観(かん)のために城外に出て、最初は老人を見、次回は病人、そのつぎは死人を見て、心楽しまず宮殿に引き返し、最後に出遊(しゅつゆう)したとき行いすました沙門(しゃもん)の姿を見て、出家の決心を固めたという。これが「四(し)
門出遊(もんしゅつゆう)」の伝説である。ともかく釈尊は青年のときに、父母の意に反して出家したのである。伝説によれば、夜に紛(まぎ)れて、愛馬カンタカに乗り、御者のチャンナ(Channa 車(しゃの)匿(く))を従えて出城(しゅつじょう)したという。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.35,ルビほぼ私、〔 〕私)
このような記述は大方のシャカ伝を踏まえたものですが、少し変わった意見も見ておきましょう。シャカの子供ラーフラについてのものです。並川(なみかわ)孝(たか)儀(よし)氏は、ラーフラという言葉の意味を探り、その出生の謎を考察して、大胆な結論を導きました。次のように述べています。
 ラーフラ〔の意味〕が・・・太陽と月を呑(の)み込む悪魔であることを考える時、ラーフラという命名が極めて重大な、そして深刻な状況の中でなされたことを示唆(しさ)してくれる。即ち、釈迦族の家系を断ち切る悪魔性を有した者ということになる。ラーフラの出生にこの名が付けられたことは、この出生自体に釈迦族の家系を断ち切るほどの、或いは汚すという常識では到底考えられない事情が背景にあったと見做(みな)すべきであろう。・・・この命名は釈尊の出家と関連したものである・・・ラーフラの命名に纏(まつ)わる事情が釈尊の出家を促(うなが)したのではないか・・・命名に纏わる事情とは何であるのかと言えば、それはラーフラという名のもつ意味が教示(きょうじ)してくれよう。先祖の否定や家系の滅亡・断絶(だんぜつ)を意味するような命名が具体的に何を意味するのかは、想像する以外に方法はないが、少なくとも瞑想的気質や苦からの解脱(げだつ)といった宗教的理由だけではないことは確かであろう。・・・ラーフラの出生が釈尊の出家前であったとしたなら、実子(じっし)でないという可能性を孕(はら)んだ、・・・事情を背景とした出生が出家の原因になったものと考えられる。(並川孝儀「ラーフラ(羅喉羅)の命名と釈尊の出家」『仏教大学総合研究所紀要』4、pp.31-32,ルビ・〔 〕私)
並川氏によれば、シャカの出家は宗教的なものではなく、むしろ世俗的な事情によるものであることになります。平川氏の解説中に「初禅」とありました。これは禅の境地の初期段階を指します。欲等からは離れているが、まだ意識が強く残っている禅です。さて、シャカ伝の続きを見ましょう。平川氏は、こう記述します。
釈尊は出家をして、髪(かみ)を剃り(そり)、袈裟(けさ)衣(ころも)を着けて遊行者となり、南方の新興(しんこう)国(こく)マガダに向かった。この地にすぐれた宗教家が集まっていたからであろう。当時の公道(こうどう)は舎(しゃ)衛(えい)城(じょう)から始まり、東進してカピラヴァトゥに至り、さらに東へ進み、しだいに曲がってクシナガラやヴェーサーリーを経てガンジス河に達し、さらに河をわたってマガダ国に入り、王舎(ラージャ)城(ガハ)〔おうしゃじょう〕に至る。・・・釈尊は当時有名な宗教家であったアーラーラ・カーラーマについて修行した。彼は禅定(ぜんじょう)の実習者であり、釈尊に「無所有処(むしょゆうしょ)定(じょう)」という禅定を教えたという。釈尊はこれに満足しないで、別の師ウッダカ・ラーマブッタについて修行した。ウッダカは「非想非々想処(ひそうひひそうしょ)定(じょ)」という禅定に達していた。・・・かかる微妙(びみょう)な禅定に入ると、心が全く静寂(せいじゃく)となり、あたかも心が「不動の真理」に合体したように思われる。しかし禅定から出れば、再び日常の動揺(どうよう)した心にかえってしまう。故に禅定で心が静まるだけでは真理を得たといえない。禅定は心理的な心の鍛錬(たんれん)であるが、真理は論理的な性格のものである。これは智慧(ちえ)によって得られる。そこで釈尊は、彼らの修(しゅ)定主義(じょうしゅぎ)の方法だけでは生死の苦を解脱することはできないと考えて、彼らのもとを去ったという。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.36,ルビほぼ私、〔 〕私)

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