「倶舎論」をめぐって

XXXIX
事は、極めて、ナーヴァスで重要なので、ここでは、今後の見通しのみを述べておこう。桂氏の見解の背景には、恐らく、服部正明氏の名著Dignaga,On Perception,1968の次の一節がある。
2つの認識対象の根本的な区別に応じて、2つの認識手段の峻別
(pramanavyavastha)がある。…この理論は、明らかに、異なった認識手段の
混合(pramanasamplava),つまり、同じものが、4種のどの認識手段によっ
ても、認識され得るという見解に反対して立てられた。…Uddyotakara〔ウッディヨータカラ〕やVacaspatimisra〔ヴァーチャスパティミシュラ〕が為した詳しい議論はStcherbatsky〔シチェルバツキー〕により、精密にトレースされたので、ここに、さらなる言明は不要である。(p.80の注14〔 〕内筆者の補足)
つまり、碩学シチェルバツキー(Th,Stcherbatsky)の見解から、検証し直さねば、ならないのである。これは、インド思想界におけるディグナーガの位置を再確認することになるだろう。ディグナーガとアビダルマに関しては、対立的に評価するよりも、ダルマキールティまでも含めて、アビダルマ的自相・共相問題として一括して、論じるべきだと思う。「二諦」説の問題に一脈通じるところがあるように、筆者には見えるのである。最後にアビダルマとディグナーガの関係を顧慮した吉田哲氏の見解を紹介しておきたい。
 すでにアビダルマ文献中でも五識身〔5感〕は「自相」を対象とせねばならず、「共相」が対象であるとすれば矛盾であるということが定説化しており、たとえ「共相」を対象とすると表現しても問題を生じないよう措置が取られていることを確認できる。…Dignagaは先行するアビダルマ文献中の議論を彼なりに要約した形で再現し、五識身の対象としての’samanya’の意味が自説に抵触しないことを確認していると考えられる。(吉田哲「Pramanasamccaya I 4の一解釈例」『印度学仏教学研究』57ー1,2008,pp.408-407、〔 〕内は私の補足)
なお、木村誠司「「現量除分別」の経証について」『平井俊栄博士古希記念論集 三論教学と仏教諸思想』2000年、pp.643-655も参照されたい。今は、これ以上、仏教内での論議には深く入らない。

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