新インド仏教史―自己流ー

その6

先ほど、バーヴィヴェーカという龍樹の後継者(こうけいしゃ)の名を上げました。実質的(じっしつてき)に「中観派」を名乗ったのはバーヴィヴェーカでした。彼以降、龍樹の系統(けいとう)は、大きく二分されます。1つは自(じ)立派(りつは)、もう1つは帰謬派(きびゅうは)と言います。今日では、中観派の歴史を語る上で、ごく当たり前に使われている分派名です。簡単に説明すると、龍樹説を解説する時、自立派は論証の作法を大事にしますが、帰謬派はその考え方に批判的なのです。空をどのように論証するかということは、中観派にとって最重要なので、議論は沸騰(ふっとう)しました。したがって、自立派・帰謬派の分類も大切なものとなります。しかし、この大事な分派名さえ、実のところ、由来(ゆらい)がはっきりしないのです。少々、研究史を紹介してみましょう。1982年、大分以前の概説書で、立川(たちかわ)武蔵(むさし)氏はこう述べていました。
 帰謬論証派は、チベット語ではテンギュルパ(Thal hgyur pa)と呼ばれるが、これがサンスクリット仏教文献には、学派の名称としての「プラーサンギカ」という言葉は見出されてはいないのである。しかし、だからといって、われわれがこの区分法をわれわれ自身の考察の中で使うべきではないということにはならない。今日では、中観思想の歴史的考察にとってはもっとも勝れた方法であると考えられる。(立川武蔵「帰謬論証派―仏護と月称」『講座・大乗仏教7 中観思想』昭和57年、p.118)
 分派名の由来は謎でした。その後、1984年に、由来に関して、小川(おがわ)一乗(いちじょう)氏が、「ジャヤーナンダ(Jayananda)の『入中論釈(にゅうちゅうろんしゃく)』にRan rgyud pa即ち自立派という表現があることが報告された」(小川一乗「学派名”Svatantrika”についての報告」『宗教研究』259,1984,pp.599-600)。と報じました。小川氏は、これをもって、自立派がインド成立であると断定(だんてい)はしていません。さらに、この報告に対し、1997年に、松本(まつもと)史朗(しろう)氏は、「ジャヤーナンダの『入中論釈』が本来サンスクリット語で書かれていた文献(ぶんけん)かどうかという点に、疑問を持っている」と述べ、慎重(しんちょう)に結論を探るべきことを示唆しました(『チベット仏教哲学』1997年、「ツォンカパの中観思想」,pp.193-194)。さらに、ジャヤーナンダによる自立派を示す言葉は、2003年、吉水千鶴子氏の英語論文注でも指摘されたのです。(Chizuko Yosimizu,Tsong kha pa’s Reevaluation of Candrakirti’s Criticism of Autonoumous Inference,in The Svatantrika-Prasangika Distinction,2003,p.276,notes.3)その後、2017年、西沢史仁氏は、「この自立派と帰謬派という用語は、筆者が知る限り、パツァップ・ニマタク(Pa tshab nyi ma grags,1055-1140?)の『根本(こんぽん)中論(ちゅうろん)』の注釈に見出されるのが最初である」(西沢史仁「中観帰謬派の開祖についてーゲルク派の伝承を中心としてー」『印度学仏教学研究』63-2、平成29年、p.939の注1))と述べました。30年以上経過しても、分派名の由来さえ判然(はんぜん)としないのです。このように、思想的・教理的面でも、龍樹そして中観派の実態(じったい)は謎に満ちています。賛美されることの多い龍樹の別の顔を見てもらいました。


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