仏教余話

その11
漱石が接した明治の仏教とは、かなり、錯綜した顔を持つらしいことは納得してもらえるだろう。明治仏教がどれほど複雑怪奇なものかを示すために、以下に、些か、その裏面史ともいうべきものも、紹介してみよう。
明治は仏教にとって、確かに、受難の時代だった。慶応4年(1868年)に神仏分離令が出され、神道が国家宗教となり、仏教は廃仏毀釈運動の中で迫害されていった。この運動は、1871年頃まで続き、寺院は荒廃した。この間の仏教側のあわてぶりを伝える記事があるので、見ておこう。
 増上寺は門前に鳥居を建て、浅草寺は本尊を観音でない事にし、下総(しもうさ)成田の新勝寺は「当方は印度の仏神などを祭っているのではない。我国神代の不動尊(うごかずのみこと)を奉祀するものである」と曲弁して廃業を免れようとした(『現代仏教 明治仏教の研究回顧号』昭和8年、7月より、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』2008年、p.41から抜書き、ルビは私)
当時の寺院の生き残り策がみてとれる。相当に逼迫した状態だったのであろう。
さて、欧米化も進む中で、キリスト教も台頭し、仏教は、一層、自己防衛しなければならなかった。この時代の著名な仏教者の1人に井上円了という人がいる。この人は妖怪学の創始者として知られている。いわば、妖怪漫画家、水木しげるの先達のような人物である。もっとも、彼が妖怪を研究したのは、その非科学性をいい、仏教から排除するつもりであったらしいので、妖怪礼賛の水木しげるとは、意図するところはまるで異なる。ともあれ、井上円了は、仏教擁護のための著作活動にも熱心だった。『真理金針』という書物を著し、仏教がキリスト教よりもすぐれている、と説いたりしていた。このような活動を破邪顕正(はじゃけんしょう)運動と呼んでいる。
さて、ここから、話はややこしくなる。昨今、スピリチユアリズム(spiritualism,心霊主義)というものが、流行しているが、その大元ともいえるのが、神智学協会(The Theosophical Society)であり。そこには、2人の大物がいた。1人は、マダム・ブラバツキー(Herene Petrova Blavatsky,1831-1991)というロシア生まれの有名な霊能者、もう1人は、オルコット(Henry Steel Olcotto,1832-1907)というアメリカ人である。このオルコットは、はじめて、キリスト教から仏教に改宗したと目される白人である。この何となくいかがわしくさえ見えるオルコットという人物が明治期の日本仏教に深く関わってくるのである。
この破邪顕正運動が盛んな頃、そのオルコットから日本の仏教徒に1通の手紙が届いた。オルコットは、その中で日本仏教復興の手助けをしたい と述べる。キリスト教から仏教に改宗したアメリカ人は、これをきっかけに注目を集めるようになる。オルコットの手になる英文著作The Buddhist Catechismが、『仏教教理問答集』として翻訳されたりした。この大学の基になっている曹洞宗の僧侶に原担山(1819-1892)という人がいる。原は東大のインド哲学科の初代講師を勤めたほど学識のある人物である。その原が、どうやら、オルコットの『仏教教理問答集』の影響を受けているらしい。オルコットの影響力が浅からぬものであったことを伺わせる事実ではある。原担山については、また、後で取り上げるつもりである。

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