新チベット仏教史―自己流ー
その9
その様子について、シャーキャチョクデンの『量の歴史』Tshad ma’i chos ‘byungには、以下のように記してあります。
プラマーナの定義(tshad ma’i mtshan nyid,pramanalaksana)に敷衍(ふえん)して、定義・所定義・定義例という3つの規定を詳らかにすること、これは他ならぬこの著者〔チャパ〕の才覚によって日の目を見たのである。つまり、その昔は、そのような規定の詳細について、インドやチベットの如何なる注釈者も説明していなかったが、この後の世では、その規定は、市場にある乳(tshog ‘dus kyi ‘o ma)のように〔当たり前に〕なった。
(Leonard.W.J.van Kuijp,Contributions to Development of Tibetan Buddhist Epistemology,Wiesbaden,1978,pp.77-80参照)
さらに、シャーキャチョクデンは、3項にまつわる事情をこう述べています。
7部の御著者〔=ダルマキールティ〕の著作に、〔3項の〕定義式(mtshon sbyor)の典拠はなくても、尊師弥勒(みろく)(rje btsun byams pa)の〔般若経に対する〕注釈的著作(gzhung’grel)〔『現(げん)観(かん)荘厳論(しょうごんろん)』第4章「一切相(いっさいそう)現(げん)等(とう)覚(かく)」Sarvakarabhisambodha,第13偈において〕「あるものによって定義される時、そのあるものは定義であると知られるべきである。」〔と説かれ、同章第31偈において〕「定義されるもののように定義されるので」と説かれていることや、それの注釈において、〔3項の定義式が〕詳らかにされていると判断して、論理の自在神チャパ以降の雪山国チベットのあらゆる論理家(rtog ge pa,tarkika)に〔定義式は〕明瞭に知られているが、聖なる国〔インド〕に現れた7部の注釈に通じた者達や、ゴク翻訳官(rNgog lo)〔=ゴクローデンシェーラプ(1059-1109)〕から〔その弟子で、チャパの師とされる〕ギャメル(rGya dmar)の間のチベットの偉大なる学流の開祖には知られず、…
このように、インドを超えたチベットの独自性が見られる教理もあるのです。
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