世親とサーンキヤ

その15
この『倶舎論』の記述は、サーンキヤの文献『論理の灯』にも似たような文があり、参考になる。次のような記述である。
 〔以下のように〕いう。「dharmaとdharminの両者は、別物ではないと承認しているので、dharmaの生起と消滅の時、dharminの生起と消滅が出来するのである。」つまり、汝等〔仏教徒〕にとっては、諸々のdharmaは、dharminと別なものではない。そこで、もし、dharmaの消滅が認められるなら、dharminも消滅するのである。別物ではないからである。dharmaが生起すれば、それ(=dhramin)の生起が得られるのだ。その場合、〔我々サーンキヤの考えでは〕、「dharmaの生起と消滅の際、dharminの実像は、固定化している、〔故にdharminは生起も消滅もしない」ので、〔汝等の〕言っていることは、理屈に合わない。
aha:dharmadharminor ananyatvabhyupagamad dharmotpattivinase dharmy-
utpattivanasaprasangah/na hi vo dharmebhyo ‘nyo dharmi/tatra yadi dharmasya nivrttir abhyupagamyate dharmino ‘pi nivrttir ananyatvat prapta dharma-utpattau tadutpatteh/tatra yadi uktam dharmotpattivinase dharmisvarupavasthanam ity etad ayktam/( A.Wezler&S.Motegi:Yuktidipika The Most Significant Commentary on the Samkhyakarika,vol.1,Stuttgart,1998、p.163,ll.27-31、村上真完『サーンクヤの哲学―インドの二元論―』1982,pp.129-130に大部分の訳がある,サンスクリット原典ローマ字転写)
ここでのdharma,dharminは通常の理解では、適切に訳し難い。そこを敢えて、訳せば、dharminは「状態の維持者」dharmaは「状態」となる。『倶舎論』の記述からすれば、dharminはdravyaとイコールである。dravyaも、よくあるように「実体」などと訳してしまうと、意味は見えにくい。恐らく、「材料」「素材」という意味である。それが、『倶舎論』では、dharminと言い換えられているのである。『真理綱要』「難語釈」のdharminも,dravyaのことである。つまり、dravya・dharmaと、dharmin・dharmaという2種類の関係があるのだが、その実態は同じなのである。こういう状況が、把握
出来ていないと、『論理の灯』や『真理綱要』「難語釈」の記述にも訳はつけにくい。私の訳は、まだ、試訳の段階にあって、十分とはいえない。しかし、上のように訳した経緯はわかって頂けるものと思う。先に見たように、dharminは通常、「主体」「基体」と訳され、dharmaは「性質」「属性」とされる。dharma・dharminをセットにすると、dravya・dharmaのセットから推測される「材料」と「それから形成されるある状態」という対比は、念頭
に浮かびにくいのである。しかし、実態は、それに間違いない。dharma,dharminという言い方は、両者の一体化をいうためには、都合がよく、仏教徒は、それを利用し、因果別体を主張する。一方、サーンキヤの言い分は、「一体であり、かつ、異なるもの」という因果関係である。これを奇怪な見解として、退けるのは、必ずしも、合理的ではないようにも思う。

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