仏教余話

その122
この原担山重用の背景には、ある政治家がいた。名を加藤弘之という。かれが、担山を東大講師にした直接の責任者であったらしい。では、どのような経緯で、担山を東大講師としたのだろうか。木村氏のいうところを聞いてみよう。
 では、加藤弘之はなぜ担山に白羽の矢を立てたのであろうか。推察される第一の理由は、加藤が七九年以前に担山の名を知り、合理的ないし科学主義的なかれの仏教観の基本的な特徴について理解し、共鳴するところがあったと思われることである。すでに述べたように、加藤は担山から六九年、〔原担山の著書〕『時得抄』を贈られている。さらに加藤は、その立場からして担山の維新後の仏教界の変革を志向する活発な諸活動についてもある程度耳にし、好感をもっていた可能性もある。これらが担山を講師に招く下地となっていたと見られるのである。第二には、加藤は仏教そのものに一定の評価を与える一方、当時の現実の仏教界に対してはかなり厳しい批判的な見方をしていたことが窺がわれる。そして、それゆえに、仏教界の正統の中に講師を求めようとは考えなかったのではないか、ということである。この点で、担山が七二年に曹洞宗の僧籍を失っていたことはかえって幸いであったかもしれない。(木村清孝「原担山と「印度哲学」の誕生―近代日本仏教史の一断面」『印度学仏教学研究』49-2,平成13年、p.541、〔 〕内は私の補足)
僧籍を剥奪され、易者をしていたことが、却って、東大講師採用にはプラスに作用したようである。こうして、『大乗起信論』が、日本では、インド哲学の最初の書物となったのである。


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