仏教余話

その75
それよりも、仏教論理学の基本理念であると、私が信じて、疑わないことに言及した方がよいだろう。以下に、示してみよう。
 〈仏教論理学の基本理念〉
仏教論理学者達は、次のような見解を持っていた。例えば、『真理綱要』(Tattvasamgraha,タットヴァサングラハ)は言う。
 次の偈の意味は『真理綱要』の全章で確認されるだろう。そして、それが、まさに、仏陀の考え方でもある。
 「おー、比丘達よ、私の言葉を尊敬の念から信じるな。君達は、人が本物の黄金を確かめるように私の言葉をチェックしなければならない。彼らは黄金の純度を火に焼いたり、切断したり、試金石で磨いたりして調べる。君達も、批判的なテストの後で私の言葉を受け入れるべきだ。」
《 以下のことは、すべての考察において、明らかにされるだろう。つまり、これも、世尊に順ずる考えである。次のように、言われている。
  比丘達よ、賢者が、熱したり(tapa)、切断したり(cheda),
磨いたり(nikasa)して、黄金を手に入れるように、私の言葉も、
  よく考察してから、受け入れるべきだが、尊敬の念によって、
  受け入れるべきではない。と。》(《  》内はサンスクリット語原典の訳である)
この偈は、近代の学者達により、仏教論理学の立場を示すものとして、紹介されている。例えば、ムケルジーは、彼の有名な著作で、次のように言う。
  仏教は、その最初期からその精神において、批判的であった。仏陀は知性の巨人であり、何よりも、合理主義者であった。
そして、ロシアの世界的学者、シチェルバツキーも、彼の本で、述べている。
  すでに述べてきたことから明白なように、そしてこれからの分析のすべてによって、証明されるのであるが、仏教哲学は、明らかに批判的、アンチドグマ的な傾向を持つのである。
日本の代表的学者、服部も、同じ偈を引用し、それについて、言及している。
  ディグナーガは、聖典の無条件な権威を承認しなかった。彼によれば、ブッダの言葉は、それが妥当なものとして認められる前に、批判的なテストを受けなければならないのである。この批判的な態度を、彼は仏陀から継承し、、、
シャーンタラクシタとカマラシーラは、彼らの著書『真理綱要』の後半で、再び、この偈に言及する。
純粋な黄金は、熱したり、切断したり、磨いたりしても、変わらない。仏陀の言葉も、純粋な黄金のように変わらない。「純粋な」とはすべての過失を欠如しているということである。純粋な黄金が変わらないように、仏陀は決して間違わない。仏陀の言葉は宝のようなものだ。人は、仏陀の言葉が正しいかあらゆる手段で確かめる。その手段は3つある、すなわち、1.熱することのような知覚、2.磨くことのように客観的なテストに基ずく推理、3.切断することのような聖典に基ずく推理である。そのようであるから、人は仏陀の言葉によって修行することだけが正しいのである。
 《 熱したり、切断したり、磨いたりした無垢(amala)の金のように、(世尊の言葉は)、 
  考察されても、けして、変化(vikriya)が起こらないのである。と述べたのである。
 金とは、黄金のことであり、無垢とは、すべての過失を離れていること(sarvadosarahita)
であり、(そのような黄金は)、考察されても、熱したりすること等によって、変化が起こらない。それと同様に、仏陀の宝のような言葉(bhagavadvacoratna)は、熱することに似た知覚(pratyaksa)によって、磨くことに似た事物の力から生じた推理(vastubalapravrttanumana)によっても、切断するという例で示された聖典に依存する推理(agamapeksanumana)によっても、変化しないのである。それ故、賢者は、このような聖典だけに基ずいて、進むのが合理的(yukta)であるが、他はそうではない。と意図しているのである。》
 なお、この偈は馬鳴(アシヴァゴーシャ)の仏伝にも見出される。私はこの偈を仏教論理学の基本的立場だけでなく、仏陀の立場自体であると考えている

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