新インド仏教史―自己流ー

その6
ただ、アビダルマは、釈迦の教えを極めて理屈っぽく考察するものでした。それで、アビダルマは仏教哲学と訳されることもあります。この哲学的傾向に関しては、近代の著名な学者の中でも賛否両論がありました。部派仏教の分野で、著名な研究者、櫻部健氏の著書から、その様子を引用してみましょう。
 〔ヨーロッパの著名な〕L・ド・ラ・ヴァレ・プサン〔Lois de la Vallee-Poussin,1869-1938〕のような学者は、…アビダルマ的傾向の濃い阿含(あごん)経典を目して、原初の仏教の魅力あふれた教説の内容を、十全に、公平に、伝承したものではなくて、それを「哲学化」し、「阿毘(あび)達磨(だるま)化」した、僧院の教科書用集成である、とする。(櫻部建『倶舎論の研究 【界・根品】』2011新装版、pp.29-30、ルビ・〔 〕私の補足)
このように、プサンは、アビダルマに対しては批判的な見方をしています。櫻部氏は、これに異を唱える別な有名学者の意見も示しています。
 プサンの説は、しかし、〔ロシアの世界的学者〕スチェルバツキー〔Th.Scherbatstsky1866-1940〕の強い反駁(はんばく)を受けた…。プサンのように、初期の仏教が後期の「スコラ」仏教と相対立するかのように考えることは、アビダルマ仏教が、何か本質的に原初の仏教と異なっていた、とすることであるが、事実はそうではない。仏陀は決して形而上学的(けいじじょうがくてき)思弁(しべん)に無縁の徒であったのではなく、その教義は看過(かんか)すべからざる哲学的構造を有している。(櫻部建『倶舎論の研究 【界・根品】』2011新装版、pp.29-30、ルビ・〔 〕私の補足)
アビダルマに対する見方は、仏教をどう見るのかという根本的な問題にもつながります。その点については、これからも触れることになるでしょう。ひとまず、これで説明を終え、次の段階に入ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?