「倶舎論」をめぐって

XXV
他に、利用して便利なものに、平川彰・平井俊榮・高橋壮・袴谷憲昭・吉津宜英『倶舎論索引』I,II,III 1973-1978がある。これによって、『倶舎論』すべての語を漢語、サンスクリット語、チベット語から調べることが出来る。本索引は、プラダン本原典の第1版を利用したものである。これについて、櫻部博士は、次のように述べている。
 一九六七年、学界の待望久しい『倶舎論』原文がP。プラダン氏の校訂によってパトナから刊行された。これによって倶舎論にはサンスクリット原文・チベット語訳・真諦の漢訳・玄奘の漢訳の四本が揃うことになり、梵本と蔵・漢語の三本を対照した総合的な索引あるいは語彙の作成が可能となったし、その実現が切望されることとなった。およそどの仏典についてもそのような三語対照の索引を作る意義は少なくはないのだが、ことに『倶舎論』の場合は別して大きな意義があると思われる。まず、この論自体“名詮自性”のコーシャであり何よりすぐれた仏教術語の宝庫であること、その両漢訳は信頼できる翻訳三蔵の卓越した訳業であること、上記のように漢訳大蔵教毘曇部の中には玄奘訳の論書で原文もチベット訳も存しないものが多くありそれの正確な読解に右のような索引は極めて有用であること、などの諸点は誰にも容易に気ずかれる所であろう。しかし、梵・蔵・漢対照の索引を作るというのは極めて労の多い、細密な注意を要する作業である。『倶舎論』のような煩瑣な教学説を盛ったテキストの場合殊にそうである。漢訳が二訳存することは一層作業を複雑ならしめる。おそらく独力でそれを企てたら何びとも一度は中道で亡羊の嘆に耐え得ぬ思いに陥るのではあるまいか。筆者自身がまさにそうであった。そして意気地なくも作業を中絶してしまった。まだ未練があって全く放棄する積もりではなかったが、時間の余裕を得るまで一時休止することにしたのである。だから、平川彰博士の手で倶舎論の梵・蔵・漢の索引が成り、近く刊行の運びになると聞いた時は、驚嘆と同慶の気持ちも確かにあったが、一方に先を越された口惜しさを感じたのも偽らぬ所である。いよいよ第一部の出版が完成して、その一本を手にするに至って知ったのは、これが平川博士を指導者とする多くの方々の熱心な協力の成果であるということである。さてこそと思い、このチームの見事な共同作業に心から拍手を送り、そのなみなみならぬ労を深く多としたのは、上記のような挫折の経験をもった身であったからである。全く、サンスクリット本だけでも四八○ページに及び、蔵・漢三本を合すれば優に千ページに余るものの、細密な索引が、比較的短い時日の間に編まれたのは、驚くに足ることではなかろうか。(櫻部建「アビダルマ論書雑記一、二(一)」『国訳一切経印度撰述部月報 三蔵集』104、昭和50年、pp.92-93)
様々な事情が伺える貴重な報告であろう。電子テキストが流布している現在であれば、索引作りは、ボタン一発の簡単な作業なのであろうが、昭和50年前後の時代では索引作り自体が大変な業績なのである。メンバーのほとんどは、駒沢大学の先生達で、今も教鞭を取っている方もいる。平川博士という1種の親分的な指導者がいなければ、この種の作業は成し遂げられない。確か、索引は学士院賞を受けたはずである。櫻部博士は、「初学者にとっても経験を積んだ研究者にとっても至便の宝典である」(櫻部建「新たに説一切有部研究を志す人のために」『仏教学セミナー』61,1995、p.46)と述べ、その後も賞賛を惜しまない。では、その索引の記載も見てみよう。まず、1巻目のサンスクリット語→チベット語→漢語の「はしがき」にはこうある。
 倶舎論は仏教研究の不可欠の基本論書である。日本では昔から〈唯識三年・倶舎八年〉と言って、仏教研究はまず倶舎論から始めるのが慣わしであった。最近はサンスクリット語やパーリ語の研究が進んだために、仏教研究の方法も変わってきた。しかしそれで倶舎論の重要性が減じたわけではない。…1967年には、P.プラダン教授によって、待望の倶舎論の梵本がパトナから刊行された。そのため梵本・チベット訳・漢訳二本を網羅した索引の作成が可能となった。しかしこれは容易ならぬ仕事ではあるが、幸い若い諸君から熱心な協力の申出があったので、この計画に踏み切ったのである。(『阿毘達磨倶舎論索引』Part one,1973,p.ii)
この後、英文で『倶舎論』の著者、世親の年代論、世親の著作、『倶舎論』内容に関する説明が40ページほど続いている。有名なフラウワルナー(E.Frauwallner)の世親2人説には、反対を表明し、世親は1人であった、という立場を取っている。(p.II-III)

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