新チベット仏教史―自己流ー

その5
ここでは、何度も取り上げた二諦についての記述を紹介してみましょう。
 これ〔毘婆沙師〕の流儀(lugs)の二諦の設定法に関する規範(ngo bo,rupa)とは、『倶舎論』(mDzod,Abhidharmakosa)において、
 あるものを〈物理的に)破壊した時、それの認識がなくなるもの、そして、知性によって、〈成分を〉分析した(gzhen bsal ,anyapoha)時、〔それの認識がなくなるもの〕、それは、壺や水のようなものであり、〈分割可能な〉日常的存在(kun rdzob yod,samvrtti-sat、世俗有)である。そうでないとすれば、〈分割不可な〉究極的存在(don dam yod,paramarthasat、勝義有)である。
といわれる如くである。ある存在を破壊・考察何れかによって〔壊した時〕、〔その存在〕自身であるという認識が廃棄可能となる存在は、日常的真理(世俗諦(せぞくたい))である。そして、それ〔ある存在〕を〔破壊・考察〕何れかによって〔壊した時〕、〔その存在〕自身であるという認識が廃棄不可能となる存在は、究極的真理(勝義諦(しょうぎたい))である。そ
のうち、「破壊」とは、ハンマー等によって、壊すことである。そして「考察」とは、色・香・味等他の要素を、知性によって、個々に分析することである。日常的真理の実例は、壺や壺の中の水のようなものである。日常的真理といわれる理由は、破壊・考察によって、自分自身の認識を捨てることが可能な壺等のそれらを、日常、壺等と命名しているので、日常の観点で壺等云々であると言う場合、まさしく真理を語っているのであり、偽りではないから、日常的真理であると『倶舎論』の自注で説明されているのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?