「倶舎論」をめぐって

XLIX
いささか、理屈っぽい記述となったが、ここで、書誌学的情報に戻ろう。先ず、公刊者の荻原博士の言葉を見てみよう。博士は、先に触れたローゼンベルグの指導にも当たった著名な大学者である。博士は、英文の序文で、苦労の跡をこう述べている。
 しかし、大戦あるいは、予期せぬ洪水や他の障害による印刷道具の破壊の影響で、印刷の仕事はほとんど進展しなかった。1931年、第2章だけを出版した。そんな状況では、生きている間に、全巻出版は不可能なのではないかと大いに案じた。(p.1)
この序文の日付けは、昭和10年、10月になっている。1935年である。その頃の荻原博士の様子を伝えるエピソードを江島恵教博士が、次のように伝えている。
 父は1935年前後に大正大学に在学した。彼の言によると、当時67/8歳の荻原雲来教授は、「最近になってやっと家族と話をする時間ができた」と語ったという。印度哲学はそんなに無理な、そして不人情な生活を強いるのか、と嫌な気分になった。しかし、いまにして思えば、荻原教授は、このとき、ヤショーミトラ『倶舎論疏』のテキストの校訂を完了して、ほっとしていたのであろうか。教授は1937年の暮れ69歳で亡くなっている。私を『倶舎論』にいつのまにか引き寄せていったのは、父の受け取った荻原教授のこの一言だったのかもしれない。(江島恵教「『倶舎論』サンスクリット・テキスト校訂について」『仏教文化』22,平成元年、pp.8-9)
出版までの苦労が偲ばれる話である。ついでに、荻原博士の研究振りを、身近な所から、見ていた、家族の話も紹介しておこう。
 連日朝八時より夕方五時迄の間は、晝食時に約四十分休み、軽く果実のみを食し、夜は七時より十時迄書斎に入って研究を続けた。(「病床日誌」『荻原雲来文集』昭和47年所収、p.167)
では、荻原博士の『倶舎論』研究の土台となったのは、どのような学問であったのか?ここで、その消息を伝えておこう。西村実則氏は、荻原博士の就学時代の様子を、こう伝えている。
 荻原は、浄土宗学東京支校卒業後、師雲台が教鞭をとる浄土宗学本校に進む。時の校長は黒田真洞(一八五五―一九六一)で倶舎と浄土学を専門とし、『法相伊呂波目録』や『法然上人全集』を編纂した人である。本校での荻原の師は、勤息義城(一八四八-一九二○)であり、発智、倶舎を講じていた。…同じ頃、本校の教授には大鹿愍成(一八五七―一九二五)がおり、唯識・因明を講じていた。荻原は同年代の野上運外(一八六七―一九四五)、福原隆成(一八七二―一九三一)とともに勤息と大鹿を師とし、その講延に列した。…こうした黒田、勤息、大鹿の三人が、倶舎、唯識を講じていたことが、荻原に自分の専門を倶舎とするうえで大きな影響を与えたのであろう。これら三人がいずれも京都・泉涌寺いた性相学の大家・佐伯旭雅(一八二八―一八九一)に学んだことも注目してよい。旭雅の著作『冠導本倶舎論』は今でも『倶舎論』を学ぶうえで必須の手引書とされ、また『名所雑記』(倶舎の中で難解とされる箇所を摘出して論じたもの)も重視されている。してみると荻原の学んだ性相学は、少なくとも旭雅の学流そのものであったといえる。(西村実則『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』2012,pp.85-86)
荻原博士の『倶舎論』研究の礎は、佐伯旭雅の学だったのである。こういう記述に接すると、『倶舎論』を「学者の玩弄物」とした発言にも、再考の余地が十分ありそうである。そのことに関しては、始めの頃に触れたので、それを思い出して欲しい。


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