新チベット仏教史ー自己流ー

その2
先に、宗論に至った背景をざっと確認しておきたいと思います。宗論は8世紀にあったとされます。一説には、794年と言われています。その当時、チベットは、吐蕃(とばん)と呼ばれ、強大な軍事国家でした。唐(とう)と対立関係にあり、一時は長安(ちょうあん)を制圧したと聞けば、その軍事力がわかるでしょう。唐との政治的関係が、宗論にも影響を及ぼした可能性は否定できません。当時のチベット王は、ティソンデツェンと言う名です。研究者の1人、ヒューストン(G.W.Houston)は、この王を取り巻く状況を次のようにまとめています。
 彼の親族の一員達は、古い土俗的宗教、そして中国仏教どちらも支援していた。貴族の多くは、ポン教を奉(ほう)じていた。始めに、ポン教の教えを追放することで、王室に影響ある貴族を一掃(いっそう)し、それから中国仏教を止めさせ、ティソンデツェンは、彼の絶対支配の下、王国の基礎を固めた。ティソンデツェンが、宗論双方の哲学議論すべてを理解していなかったとしても、政治のことはよくわかっていた。政治的見通しは告げていた。「国をまとめる宗教がなければならならず、王室への中国の影響を減らさなばならない」と。(G.W.Houston:Sourses for a History of the bSam yas Debate,1980,Sankt Augustin,Monumenta Tibetica Historica,Bd.2,p.9)
同じようなことを述べる概説書があります。
 チベットにおける仏教受容の転換期は、ツェンポのティソンデツェンが仏教に帰依(きえ)したときである。時にティソンデツェンが二十一歳、七六一年のことであった。このときから仏教はチベットの国教とみなされ、国家の後ろ盾(うしろだて)のもと飛躍的(ひやくてき)にその力を伸ばすことになったのである。仏教国教化の背景には明らかにチベット国内における仏教支持の勢力-増大がある。周辺を仏教国に囲まれ、すでに七世紀初めから仏教が流入(りゅうにゅう)していたチベットでは、八世紀の半ばには仏教支持の勢力は無視できない大きさになっていた。サムイェー僧院の詔勅(しょうちょく)文(ぶん)によれば、ティソンデツェンの父であるティデツクツェンの死後、仏教排斥(はいせき)運動が起こったというが、そのことはとりもなおさず相当規模の仏教勢力が存在したことを示すのである。しかしそれだけではない。八世紀半ば、帝国へと変貌(へんぼう)したチベットでは、チベット人のみならず多様な民族と価値観が混在(こんざい)することになった。権力に宗教的な正当性が強く求められた当時、権力闘争の末にツェンポとなった若きティソンデツェンは、内外に向かって自らの地位を裏付ける強い正当性を欲していた。そのような状況のもと、仏教はまさに普遍的(ふへんてき)かつ正当性を持つ宗教として国教に選ばれたのである。(岩尾一史「古代王朝時代の諸相」『新アジア仏教史09チベット 須弥山の仏教世界』平成22年、pp.30-31、ルビ著者・私)
上で示されているように、様々な要因を受けて、サムイェの宗論は行われました。しかし、このような歴史的観点を重視するかのような、解説は、サムイェの宗論の本質を見失わせる危険性があります。この宗論は、何よりも、思想的意味合いのある宗教論争と捉えるべきです。

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