仏教余話

その117
玄奘に少なからぬ思想的インパクトを与えた意味合いがつかめると思う。 『大乗起信論』の基本構造を現す中味を、ほんの1部、示してみよう。
 いわゆる、教え(法)とは、人々の心のことをいう。心とは、すべての世俗的な事柄(世間法)と超俗的な事柄(出世間法)を含むものなので、この心において、大乗(摩訶衍)の意義が顕示されるのである。なぜか?この心の真実のあり方(相)が、大乗の本質(体)〔超俗的な事柄〕を示しているからである。〔それが、不変の如来蔵である。〕〔一方、同じ心を、別な面、つまり、世俗的な面から見れば、その心の〕生滅する因縁のあ
り方が、各自の本質・特質(相)・活動でもあるからである。〔即ち、同じ心には、真実な不変の如来蔵と、それに気付かない日常的な活動の両面があるのである。〕
 所言法、謂衆生心。心即摂一切世間法出世間法、依於此心、顕示摩訶衍義。何以故。 是心真如相、即示摩訶衍体故、是心生滅因縁相、能示摩訶衍自体相用故。(平川彰『仏典講座22 大乗起信論』昭和48年所収テキスト、pp.56-58)
かなり、意訳したが、大体の趣旨は、上の通りであろう。このように、各自の心に、真実なる部分と虚偽なる部分との両面があることを、中国流には「真妄和合識」というのであろう。これとよく似た考え方が、実は、仏教以外のインドのある宗派で説かれている。その宗派とは、先に、やや詳しく見てきたヨーガをもっぱらとするヨーガ派(Yoga)である。その根本聖典『ヨーガスートラ』には、以下のような記述がある。テキストが手元にないので、和訳の引用を示しておく。
 心が無想〔心の作用が滅した状態〕の段階にあるときは、真我すなわち絶対知の能力は、自己本来の状態に安住する。…心が活動状態にあるときは、真我は心のはたらきと区別されないはたらきをもつ。真我と心とは、無始よりこのかた互いに結びついているから、真我は心のはたらきを経験することができる。(長尾雅人・服部正明『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』昭和54年、p.211〔 〕内は私の補足)
『大乗起信論』では、「心の真実のあり方(=心の真如相)」または、「摩訶衍の体(=大乗の本質)」と呼ばれるものが、『ヨーガスートラ』では、「真我」または、「絶対知の能力」と称されているのである。根本構造は、変わらない。「心の真実なあり方」は、さらに、如来蔵と呼ばれていくのであろうから、如来蔵思想が、いかに、仏教が排斥したはずの「我」の思想に近接したものであるのかが、よく理解出来たことと思う。とはいえ、この辺の思想的経緯は、そう単純ではない。

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