「倶舎論」をめぐって
XIV
その点にも、触れておかねばならないだろう。仏教全般に一家言を有す原田和宗氏は、こう述べている。
〔経量部の先人〕シュリーラータの学説とはかなりの隔たり、落差が認められる点から、『倶舎論』の経量部学説のことを「ヴァスバンドゥの個人的見解」と加藤氏は評された。「個人的」と評されたその見解のほとんど(決して全部ではないが)初期瑜伽行派(Yogacara)の文献『瑜伽師地論』(ヨーガ実践者の諸階梯Yogacarabhumi:abbr.YABh)および『顕揚聖教論』にその原型を有し、若干の改変操作を経由してそこから取り出されたものにほかならない。つまり、ヴァスバンドゥは彼の思想的背景たる瑜伽行派の所在を「経量部」という架空の学派名によって隠蔽したわけである。やがて彼は後続の諸著作で『瑜伽論』以降になって瑜伽行派の根幹思想として完成された唯識思想を徐々にではあるが強調していく。『倶舎論』における経量部学説はそのような大乗の唯識学説体系への理論的移行を容易ならしめるために小乗のアビダルマ教義学という土壌に敷設された足場もしくは跳躍台(spring-board)としての役割を与えられていたのだろう。ヴァスバンドゥは『倶舎論』執筆後に瑜伽行派に転向したのではなく、最初から瑜伽行派の学匠だったと考えるほうが合理的である。(原田和宗「言語に対する行使意欲としての思弁(尋)と熟慮(伺)-経量部学説の起源(1)-」『密教文化』199・200,1998,pp.246-245、〔 〕内は筆者の補足)
どうやら、小乗仏教の枠内も飛び出して、インド仏教の代表的大乗である唯識が、『倶舎論』のベースにあるらしいのである。このことは、何人もの研究者の指摘するところである。唯識の専門家、袴谷憲昭氏は、原田氏の10年も前に、こう述べていた。
AKBh〔『倶舎論』〕において〔世親が権威として引用する〕Purvacarya〔昔の先生〕の説として関説される一一箇所について検討を終えたが、(7)の例以外は、すべて、それらの典拠をYogacara〔唯識〕文献中に実際上もトレースできるものか、もしくは今後そうしうる可能性の高いものかのいずれかであることは充分示しえたのではないかと思われる。(袴谷憲昭「Purvacarya考」(初出1986)『唯識思想論考』所収2001,p.515,〔 〕内は筆者の補足)
そして、袴谷氏の更に、10年以上前に、向井亮氏は、高らかに、以下のように述べていた。
『瑜伽論』に於ける過去未来実有論が有部の〔学派名の由来ともなった、特殊な時間論〕 所謂三世実有論であることは明らかとなった。更に、その過去未来実有論即ち有部の三世実有論を批判する『瑜伽論』作者の立場と経部に拠る『倶舎論』論主世親のそれとが基本的に同じであること、そして両者の構成の仕方が近いことも知られた。(向井亮「『瑜伽論』における過去未来実有論に就いて」『印度学仏教学研究』20-2,1972,p.141、〔 〕内は筆者の補足)
また、管見の範囲では、向井氏の50年ほども前に、既に『倶舎論』と唯識との関係は取沙汰されている。昔の辞典にはこうある。「斯の如く有部の極端なる多元論に対して多分の実在を否定し、四大と心王との色心二元論を主張するは、甚だしく唯識大乗に接近したるものなり。」(仏教大辞彙、1914年)。更に、もっと古くに、船橋水哉博士は、こう断じている。
此点に於て有部の極端なる多元論は仏説の非含蓄的発展化にして時間を隔つる愈遠きに従い益仏意を去るの嫌いがないではない、蓋し世親の教義改善を待つ所以である。教義上経部は有部と唯識との中間に立つ者にして、有部の多元論は色心二元論に発展し、再び唯識の唯心一元論に進化せねばならぬ。(船橋水哉『倶舎哲学』明治39年、1906年、p.132)
思うに、玄奘由来の法相宗では、『倶舎論』は唯識的見解に至るための道具なのだから、このような視点は当たり前なのかもしれない。しかし、これからも折に触れて、告白しなければならないのだが、私は、古い伝統的な『倶舎論』研究の内実には、全く、通じていない。話を進める中で、その消息もわかるといいのだが、今のところ、どうなるか予想もつかない。ともあれ、霞んで見えない世親という学僧とその著書『倶舎論』の錯綜性に、想いをいたしてくれればよいと思う。実際、今や通説化していると思える「『倶舎
論』唯識説」でさえ、二転三転して、批判の憂き目に会う。最新の研究では、以下のような慎重論が取られている。
〔世親の別著〕『釈軌論』で世親が明瞭に定義している大乗説が『倶舎論』に見いだされないことからみても、世親は『倶舎論』執筆当時に大乗者であったとはいえない。『倶舎論』中に〔大乗唯識派の聖典〕『瑜伽論』に対応する説が見られるという指摘は、「理長為宗」(道理の長けている教理をもって宗義となす)」の「理長」の一つとして『瑜伽論』の説があったという意味を持つものと評価しうる。(堀内俊郎「中期瑜伽行派の思想」『シリーズ大乗仏教7 唯識と瑜伽行』2012,p.143,〔 〕内筆者の補足)
『倶舎論』の代名詞のような「理長為宗」の意味合いと共に、私は、ここに思想の流行り廃りを見てしまうのだが、それについては、また、別の機会に触れよう。
さて、世親は、仏教を離れ、インド思想界を視野に入れると、一層、不可解な姿を見せる。1部、示しておこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?