世親とサーンキヤ

以下は、「倶舎論」の作者、世親の実像を探る一環として考察したものである。

サーンキヤ思想解明の意義 I
〈『真理綱要』及び難語釈Tattvasamgraha&panjikaのサーンキヤ説―その思想的位置〉
    はじめに
 サーンキヤ思想のイメージを、伝えるために、最近の研究から、その重要性を強く訴える発言を、紹介しておこう。ラルソン(G.J.Larson)は、「ネオ・サーンキヤとしての古典ヨーガ:インド哲学史における1章」という論文の末尾で、こう述べている。
 西洋哲学は、プラトンの1連の脚注である、といわれてきた。少し違うが、サーンキヤについても、同じことをいいたくなるのである。仏教の哲学や用語、ヨーガの哲学、初期ヴェーダーンタの思索、シヴァ信仰やヴィシュヌ信仰の広範囲な神学は皆、重要な意味で、生き生きしたサーンキヤ「伝統文献」への脚注、または、反動である。即ち、インドの哲学的思弁の最初期から、中世に続く時代、サーンキヤは、他のすべての伝統(ヒンドゥ、仏教、ジャイナいずれも)に、知性的な規範や枠組みを与えてきたと思うのである。これは、多くのインドの哲学化の伝統が、サーンキヤの存在論や認識論に同調したといっているのではない。反対に、大部分のインドの哲学的学派は、手厳しいサーンキヤ批判から始まっているのだ。ただ、こういいたいのである。インド哲学のほぼすべての学派は、サーンキヤを外せない必須の知的立場と評価しているのであると。(G.J.Larson:Classical Yoga as Neo-Samkhya:A Chapter in the History on Indian
Philosophy, Asiatische Studien Etudes Asiatiques LIII・3・1999,p.732)
これは少し、言い過ぎの感もあるが、同じ学会誌に掲載されている世界的学者、ヴェツラー(A Wezler)氏の控えめな記述でも、サーンキヤの大事さは、伺えるのである。こう述べている。
 サーンキヤの「前史」「初期史」「形成」は、極めて、議論を呼ぶ話題である。それに携わった昔の学者の著書を渉猟する時、それは、まさしく、本物の鉱脈だという印象を禁じえないのである。(「グナ理論の起源について、新たなアプローチへの模索:フラウヴァルナーとの格闘」A Wezler:On the Origin of the Guna-Theory.Struggling for a new Approch(I):Wressring with Frauwallner、Asiatische Studien Etudes Asiatiques LIII・3・1999,p.537)
これから扱うのは、上のような本格的なサーンキヤ研究ではない。また、私の興味も、そこにはないのである。その辺のことも含めて、その目的などを述べておきたい。

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