新インド仏教史ー自己流ー

第7回 シャカ以降の仏教―大乗仏教とは―
その1
前回は、釈迦の死後、様々な仏教教団が生まれたことを見ました。有力な部派については簡単に触れましたが、多くの部派の内実は不明なままです。触れたくとも触れられないというのが現状です。実は、大乗仏教も謎の部分が多いのです。特に、それがどのように生まれたのかという点に関しては、議論が絶えません。日本の仏教教団、例えば、曹洞宗(そうとうしゅう)、浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)、真言宗(しんごんしゅう)等はすべて大乗仏教に属することを考えると、その起源が不明なのは不思議に思えます。少し回り道になりますが、インドでの起源を見る前に、まず、日本で巻き起こった大乗仏教非仏説論を知っておくのも大事であると思います。
 日本史で習ったと思いますが、明治時代は、廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)という仏教排斥(はいせき)運動が起こり、仏教には受難の時代でした。その渦中(かちゅう)、浄土真宗という宗派の一員から、大乗非仏説論が叫ばれ
ました。浄土真宗も当然、大乗仏教ですから、自らの生存理由を自分で否定したことになります。これは由々(ゆゆ)しきことでした。大乗非仏説論を唱えたのは、村上専(むらかみせん)精(しょう)(1851-1929)という研究者です。彼は、この論により、破門されました。まず、村上の破門の様子を伝える、当時の記事を紹介しておきたいと思います。この記事は、近(ちか)角(ずみ)常(じょう)観(かん)(1897-1941)という僧が中心となった雑誌『政敎(せいきょう)時報(じほう)』に載ったものです。彼の主宰する『政敎時報』には、次のように記されています。昔の文章で読みにくいでしょうが、当時の雰囲気を伝えるものと思ってトライしてみて下さい。
 村上博士僧籍(そうせき)返還(へんかん)の顛末(てんまつ)
 村上博士僧籍返還の顛末と題し「日本」新聞記する所如左〔さのごとし〕
 大谷派(おおたには)本願寺(ほんがんじ)末寺(まつじ)なる、村上専精佛敎(ぶつきょう)統一論(とういつろん)を公(おおやけ)にしたるより、議論(ぎろん)沸騰(ふっとう)し本山(ほんざん)に在りては一派に對(たい)して、宗義(しゅうぎ)に異論を立て異議を説くものには一歩をも許さず、極刑(きょっけい)として宗門以外に賓斥(ひんせき)し以て僧籍癈牒(そうせきはいちょう)を奪ふの先例あり。先きには能登(のと)靈崎(れいざき)頓(とん)成(せい)、占部觀(うらべかん)順(じゅん)何れも大谷派の碩(せき)徳(とく)なれけるが、宗義に異説を主張し、門徒(もんと)の極樂(ごくらく」)往生(おうじょう)一向(いっこう)にまよいを與(あた)へしとて、所謂(いわゆる)極刑の賓斥(ひんせき)に處(しょ)せられし先例あり、同じ三河國(みかわのくに)より出(いで)し村上氏、又佛敎統一論を公にしければ、本山に於(お)ても是が處分(しょぶん)は捨置(すておく)べからずと協議中、眞宗(しんしゅう)高倉大學寮學頭(たかくらだいがくりょうがくとう)、講師吉谷學(よしたにがく)壽(じゅ)以下諸講師、學師(がくし)三十七名連署して、村上の處置速決を本山に迫り、各地方學師より續々(ぞくぞく)其(その)處置を本山に迫るに至り、猶(な)ほ各宗派に於ても大谷派の處置に關(かん)して注目する所あり、殊(こと)に本派本願寺に於ては、去月二十二日より開會(かいかい)せる定期集會(しゅうかい)に於て、會(かい)衆(しゅう)の一人松島(まつしま)善(ぜん)海(かい)より奨來(しょうらい)同派(どうは)僧侶著書出版取締を設(もう)け出版者に本山の検閲を經(へ)へきとにせよとの建議(けんぎ)さへ出でしも、大谷派は一方に財務整理の大事業中なり、頓(とん)成(せい)、空音(くうおん),觀(かん)壽(じゅ)の如き本山限りの學師稱號(がくししょうごう)を有するものなれば、首を切るも切らぬも、本山の自由なれども、何分村上氏は文學博士の稱號を有し、學士社會の大團體(だいだんたい)之(これ)に屬(ぞく)しあれば、本山若し頓成同様の處分をせんか忽(たち)まち此(これ)等(ら)社會(しゃかい)より非難の聲(こえ)囂々(ごうごう)として制するに力及ばず、村上氏一人の爲(ため)に本山は學界(がっかい)を合手の戰(たたか)ひを開かざるべからざるに至るや必(ひつ)せり、此に於て耆(じ)宿(しゅく)密會(みつかい)して議するありし結果、村上自分より僧籍を返還せしむるの一事こう一擧兩(いっきょりょう)得(とく)の虎の巻(とらのまき)なれとて、敎學録(きょうがくろく)事大田祐慶士(じおおたゆうけいし)を遺(つかわ)して相談の幕を開き、新法(しんほっ)主(す)の説諭(せつゆ)もありて無事に其の運びとなり、本山は左の如く指令して一段落を告げたり
  三河國寶飯郡御馬村
 入覺(にゅうかく)寺(じ)前住職 村上専精
 願いに依り僧籍を除く
 明治三十四年十月二十五日
 執綱權(しつこうごん)大僧正(だいそうじょう) 大谷 勝 縁印
 (『政敎時報』67、明治34年、11月15日発行,pp.10-11,〔 〕・ルビ私、1部標記変更)
「村上自分より僧籍を返還せしむるの一事こう一擧兩(いっきょりょう)得(とく)の虎の巻(とらのまき)なれとて」とあるように
今で言う自主規制のような形で、自分から身を引いたというのが、真相のようです。破門というと、きつい処罰のイメージですが、それとは幾分ニュアンスは異なります。村上の所論を、少しだけ、引用しておきましょう。以下のように言っています。
然(しか)るに世に愚僧(ぐそう)の多き、明かにこの間の別を区画せざる者尠(すく)からず。之(これ)に依りて予(よ)が曾(かつ)て『仏教(ぶっきょう)統一論(とういつろん)第一編(だいいちへん)大綱論(たいこうろん)』に於て、歴史的方面よりして大乗は仏説にあらざる所以(ゆえん)を説き、その詳論を俟(ま)たず、徒(いた)らに不学(ふがく)無識(むしき)の純良なる野人(やじん)に之を吹聴(ふいちょう)し、恰(あたか)も予を目して排(はい)仏教(ぶっきょう)論者(ろんしゃ)の如く指示せる者あり。されど未(いま)だ正々堂々にたる論陣(ろんじん)を張りて大乗の真に仏説たる所以を考証し、以(もっ)て予を駁(ばく)するの人士(じんし)之なきは、予の聊か(いささ)憾(うら)みとするところなり。予はいずくまでも、大乗仏説論は歴史的問題にして、教理問題にあらず、学術問題にして信仰問題にあらずと確信す。(村上専精『大乗仏説論批判』、明治36年、pp.4-5、ルビ私)
信仰から、大乗非仏説を唱えたのではないと力説しています。実は、明治時代の大乗非仏説論の先駆(さきが)けは、すでに江戸時代にあったのです。

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