新チベット仏教史―自己流ー

その3
この内容も難しいです。分かる範囲で解説を加えます。「タントラ仏教」とは密教のことです。「しだいに勢力を得て」とあります。ここに至る経緯を知らなければ、文意はつかめないでしょう。先に、サムイェの宗論について述べた際、インドの2人の学僧に言及しました。ナーラーンダー僧院のシャーンタラクシタと宗論の当事者とされるカマラシーラです。両人は、インド仏教導入に当たって、密教の扱いには慎重を期しました。教理的な土台がし
っかりしないうちに、密教を広めることを禁止しました。しかし、国家が分裂すると、その規制が守られなくなってしまいました。タントラ仏教は、簡単に言うと、「性への執着という毒を薬にかえて悟りを得ようとする」教えだと思ってください。そこには、戒律は全くありません。上の文では、そのような行為を「性瑜伽」と表現しています。さらに、「南宗系の本覚思想にもとづく」とあります。これは、中国の禅宗の分派を意識した文です。中国禅は、南宗と北宗に大きく分かれます。南宗の思想を色濃く受けたのが、サムイェの宗論の中国側の代表、摩訶衍(まかえん)です。つまり、「あっという間に悟りを得ることが出来る」とする「頓(とん)悟(ご)」を意味します。そして、「大究境」は、チベット語で「ゾクチェン」とあります。意味は、「究極的な完成」です。最高の悟りととらえるとわかりやすいと思います。始めの文だけ読んでも、サムイェの宗論の敗者が復権し、彼等の教えがチベットに広まっていたことが理解できます。次に登場する「ポン教」は、チベット土着の宗教で、仏教導入には反対し、一時は押さえ込まれていましたが、これも復権したのです。その復権の仕方は、仏教等あらゆるものを取り込んだ混淆宗教の形態を取りました。とにかく、チベットには様々な教えが
無秩序に蔓延(まんえん)していたようです。そんな混乱の中で、正統的仏教を求めた人々が現れ、インド仏教の名のある僧を招こうとする動きにつながりました。そして、ついに、アティシャ招(しょう)聘(へい)が実現しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?