「倶舎論」をめぐって

VII
(以下の文は、原文の私訳である。もちろん他訳とは違う。それより、慣れない方には、難しいと思う。あえてここに載せたのは、この手の議論に慣れてもらうためである。慣れると次第に理解も深まり、「倶舎論」そのものへのアプローチも楽になっていくこと間違いない)
〔世親―犢子部がいうプドガラの検証〕さても、犢子部の者達は、〔外道が認める悪しき我と思しき〕プドガラ〔という因果応報の担い手〕を有と主張する。まず、以下のこと(etad,’di)が検証されるべきだ。彼らは〔プドガラを〕素材として(dravyatas,rdzas su)〔有であると〕主張するのか?それとも、通称として(prajnaptitas,btags par)〔有であると〕主張するのか?
〔犢子部からの確認〕この「素材として」とは、何のことか?あるいは、「通称として」とは何のことか?
〔世親の解答〕色(rupa,gzugs)等のように、〔香や味とは、全く〕別なあり方をするもの(bhavantara,dngos po gzhan)であれば、〔何かの〕「素材として」〔有なの〕である。しかし、牛乳(ksira,’o ma)のように、〔色・香・味等の素材〕が集合したもの(samudaya,spyi)であれば、「通称として」〔有なの〕である。
〔犢子部の質問〕だから、どうなるのか?
〔世親の解答〕まず、もし、〔プドガラが〕「素材として」〔有〕ならば、〔プドガラは、5蘊と〕区分された(bhinna,tha dad pa)本質(svabhava,rang bzhin)を持つのだから、諸蘊とは、別物であるといわねばならない。〔つまり、第6番目の蘊ということになるのである。〕相互補完的な(itaretara,phan tshun)〔個々の〕蘊のように。そして、〔プドガラが、諸蘊と同じく、因果関係の中にある有為だとすれば〕、これ〔プドガラ〕の原因も、語らねばならない。あるいは、〔プドガラは、因果関係を超えた不滅の〕無為だとするならば、だとすれば、外道の〔我〕見に陥るし、〔解脱の〕役に立たないものである。しかし、「通称として」〔有〕ならば、我々も、〔第1章「界品」で指摘したように〕、〔汝と〕同じように、〔プドガラは「通称有」であると〕述べるのである。
〔犢子部の反論〕実に(hi)、〔プドガラは〕全く(eva,kho na)「素材有」でもなければ、「通称〔有〕」でもない。
〔世親の批判〕その時、〔プドガラは〕何か?
〔犢子部の主張〕プドガラは、内部の(adhyatmika,nang)・受け継がれた(upatta,zin pa)・現在ある蘊に頼って、命名された(prajnapyate)のである。
  〔世親の批判〕さて、この暗闇のような言葉の持つ不明瞭な意味は、我々にはわからない。「頼って」というこれは何のことか?もし、「諸蘊を認識対象として」(alambya,dmigs nas)が、この意味ならば、それら〔諸蘊〕においてのみ、プドガラと命名されることになる。例えば、色等を認識対象として、それら〔の色や香〕においてのみ、牛乳と命名されるように。あるいは、「諸蘊に依存して」(pratitya,brten nas)が、この意味ならば、諸蘊は、プドガラと命名する原因なのだから、それは〔部分と全体、あるいは素材と集合体の価値判断を誤解した前と〕同じ(eva、nyid)間違いだ。
〔犢子部の主張〕それ〔プドガラ〕は、そのように命名されたのではない。
〔世親の質問〕その場合、どのように〔命名するのか〕?
〔犢子部の主張〕例えば、薪(indhana,bud shing)を原因として(upadaya,rgyur byas nas)火〔と命名される〕ようにである。
〔世親の質問〕では、薪を原因として、どのように、火は命名されるのか?
〔犢子部の主張〕実際(hi)、薪なくして、火とは命名されないのであるが、〔両者の関係は相互補完的であって〕、薪と別な物(anya,gzhan yin pa)が、火であると断言する(pratijnatum,dam bca’bar)ことは出来ないし、〔薪と〕同じ物(ananya,gzhan ma yin pa)が、〔火であるとも断言〕出来ないのである。
〔世親の批判〕〔しかし〕、実際(hi)、別な物であれば、薪は、熱くならないことになろう。あるいは、同じ物ならば、燃やされる物が、同時に(eva,nyid)燃やす物となろう。〔つまり、主客の区別がなくなるのである。〕
〔犢子部の主張〕〔それは、詭弁である。我々は次のように考えている。〕〔薪と火の関係と〕同様に、蘊なくして、プドガラは命名されないのである。しかして、〔両者の関係は、やはり、相互補完的であって〕、蘊と別な物が、〔プドガラであると〕断言出来ないのである。〔そうなると、プドガラは無為のような永遠の存在となり、〕常住論に陥ってしまうからである。また、〔蘊と〕同じ物が、〔プドガラであると〕も〔断言出来ないのである。そうなると、プドガラは今世で滅してしまい、因果応報を担う主体がないという〕断滅論に陥ってしまうからである、と。
〔世親の批判〕さあ(anga,kye)、何はさておいても(tavat,re zhig)汝〔犢子部〕は、「薪とは何か?火とは何か?」を述べよ。そうすれば、我々は、「どうして、薪を原因として、火であると命名されるのか?」ということを理解するだろう。
〔犢子部の解答〕ここで、〔今更〕、何をいうべきであろうか。薪は、燃やされる物のことであり、火は、燃やす物のことである。
〔世親の批判〕〔つまり〕、「燃やされる物とは何か?燃やす物とは何か?」このことだけをいうべきなのである。
〔犢子部の解答〕実際、まずもって(tavat,re zhig)世間では、燃焼していない木の枝(kasta,shing)等が薪であると、いわれる。そして、〔それが〕燃やされる物である〔ともいわれる〕。燃焼しているものが火〔といわれ〕、燃やす物〔ともいわれる〕。〔現実に、燃焼するということは〕、〔火が〕輝き出し、熱くなり、非常に〔熱を帯びることであり〕、実に(hi)それによって、〔薪が〕点火され、燃やされるということである。〔つまり、燃焼とは、薪という素材が次第に変化していくことであり、燃焼という〕連続性(santati,rgyud)は、〔素材に〕変化が与えられることだからである。さらにその両方が、〔8種類で、総数20個の原子から成る〕8事(astadravyaka,rdzas brgyad pa)〔という物質の最小ユニット〕から成るのである。〔つまり、両者は、本来、同じ素材から成り立っているのである〕。そんな薪に頼って、火が生ずるのである。例えば、牛乳に頼って、ヨーグルト(didhi,zho)〔が生じ〕、蜜に頼って、酸味(sukta,tshva)〔が生じる〕ようにである。〔つまり、素材という視点からすれば、薪と火は同じ物であり、時間が経過すると異なったものとなるのである。それが変化である。それと同じように〕。だから、薪を原因として〔火が生じる〕と いわれるのである。〔プドガラと蘊の場合、蘊という素材がプドガラに変化するのである。素材という点では、蘊とプドガラは同じ物であるが、牛乳とヨーグルトのように異なったものなのである〕。
〔世親の批判〕しかし、〔時間という視点から厳密に見れば〕、それ〔火〕は、〔薪とは〕別物である。それ〔薪〕とは、切り離された(bhinna,tha dad pa)時間に属するものだからである。〔つまり、最初に薪があり、後に火がある、という関係にある。それは、芽と種のように別物である〕。もし、〔火と薪と〕同様に、プドガラが諸蘊に頼って、生ずるならば、それ〔プドガラ〕は、〔蘊とは、時間的に切り離されているのだから〕、それら〔諸蘊〕とは、別物であり、〔新たに生じるのだから〕、無常でもあることになる。しかし、もし、〔時間的に切り離されているのではなく〕、木の枝等が燃焼しているちょうど(eva,nyid)その時、熱を帯びるもの、それが、火である。それ〔火〕と同時に生じた3元素〔地・水・風〕が、薪であると主張するならば、その両者も別物であることは、確立している。〔火という元素と地・水・風という3元素は、それぞれの持っている〕特質(laksana,mtshan nyid)が異なっているからである。〔つまり、変化とは、同じ素材から成り立ったものが変わることではないのである。だから、燃焼という変化も、犢子部の考えるような、同じ8事の変化ではない〕。
少々、長い抜粋となった。しかも必ずしも理解しやすい内容でもない。とにかく、何度も読んでわかってもらえることを願うだけである。ただ、犢子部の主張にも一理あることが伝わると思う。ここには、テキストは載せていない。それも含めて、興味のある方は、「dravyasat・prajnaptsat覚え書き」『インド論理学研究』III,2011,pp.105-126を参照されたい。ここで紹介した「破我品」には、先学の研究が揃っているので、考察の材料には事欠かない。『倶舎論』をめぐってで紹介した各論文を参照して、助けとして欲しい。

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