Tips of Buddhism

No.59
What is Yogacara?It has generally been mislabeled as ‘idealism’.
Many scholars,including D.T.Suzuki,Edward Conze,and others,have constructed elaborate interpretation of its supposed idealistic premises:One mind creating and tending the whole world,the flat denial that anything whatsoever exists outside the mind,an alaya-vijnana(warehouse-conciousness)that functions like Jung’s collective unconscious,etc.(D.Lusthaus;Buddhist Phenomenology A philosophical Investigation of Yogacara Buddhism and the Ch’en Wei-shih lun,London and New York,2002,p.4,ll.27-32)

(訳)
瑜伽行派とは何か?概して、「観念論」として誤ったレッテルを張られている。鈴木大拙や、エドワード・コンゼ等を含む多くの学者は、その仮定的な観念論的前提の精緻(せいち)な解釈に余念(よねん)がなかった。曰(いわ)く、1つの心が、全世界を作り生み出す、心の他には一体何が存在するというのか、という平板な否定、ユングの集合的無意識のように、阿頼耶(あらや)識(しき)が機能すること等である。
(解説)
ここでも、ユング(C.G.Jung,1875-1961)の集合的無意識とか、阿頼耶(あらや)識(しき)が取り沙汰(とりざた)されている。定番の説明といってもよいだろう。しかし、著者、ラストハウスは、その辺の機微(きび)を探ろうとしている。日本でも、唯識の専門家による問題提起がなされている。
 唯識思想というとアーラヤ識〔=阿頼耶識〕をまず思いうかべるのではないだろうか。そしてそのアーラヤ識とはどのようなものかというと、無意識、あるいは無意識の領域に属するものと考えることが、ある程度一般化しているのではないだろうか。この「無意識」という言葉を使うことで多くは西洋の心理学、その中でもフロイトやユングの心理学と重ね合わせて唯識思想を何気なく理解しようとしていないだろうか。西洋の学問体系の中で「無意識」という概念が受け入れられるまでには、かなりの時間を要した訳であるし、「物理的な正確さ」を暗黙(あんもく)のうちに求める西洋の学問の枠の中では、フロイトやユングの理論体系が必ずしも学問として高く評価されているとは言い切れない事情を、日本人はどのくらい認識しているのか疑問な点も多い。(佐久間秀範「個人的無意識とbhagavanvinnana-深層心理とアーラヤ識の狭間でー」『佛経文化学会十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周辺』2004年、p.75、ルビ・〔 〕私)

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