新インド仏教史ー自己流ー

第8回 シャカ以降の仏教―大乗経典―
その1
前回は、大乗仏教の起源の問題を中心にしました。大乗教団の存在の仕方に関して様々な意見があることが分かったと思います。また、日本での大乗非仏説論についても瞥見(べっけん)しました。大乗仏教国の日本であるから、大乗への関心も一際(ひときわ)高かったのでしょう。今回は、大乗仏教
の素とも言うべき、大乗経典を探ってみたいと存じます。高崎(たかさき)直道(じきどう)氏は、こう述べて、論を始めます。
 大乗仏教は教団史的に見るといまだにその実体がよく知られていない。しかし、膨大(ぼうだい)な大乗経典群の存在から見れば、粉(まご)う方(かた)なき歴史上の実在である。われわれが大乗仏教の成立について語るときも、そのほとんどの資料を大乗経典自体から得ているのであって、極言(きょくげん)すれば、大乗経典がすなわち大乗仏教なのである。(高崎直道「大乗経典発達史」『講座・大乗仏教1 大乗仏教とは何か』昭和56年、所収、p.60、ルビ・〔 〕私)
日本で大事にされている『般若心経(はんにゃしんぎょう)』とか『法華経(ほけきょう)』等のお経は、大乗経典に他なりません。そしてそれへの信仰が大乗仏教であると考えてもおかしくありません。そうすると、高崎氏の指摘は的を得ていると言えるでしょう。以下では、1番聞き覚えがある『般若経』のあれこれから見ていきましょう。こう述べています。
 大乗経典の成立期にあたって、いくつかの別箇(べっこ)のグループが存在した・・・〈般若経〉の成立以後、その教理的影響はきわめて強く、すべての大乗経典がその空思想を受け入れるようになる。・・・そうした中で、新たに『華厳経(けごんきょう)』のグループが発展し、また『法華経』信仰の運動が急速に広まる。そしてその一方で、教理の組織、体系化に伴い、部派仏教との結びつきが再び見られるようになる。(高崎直道「大乗経典発達史」『講座・大乗仏教1 大乗仏教とは何か』昭和56年、所収、p.75、ルビ私)
『般若経』の影響が大であったことを指摘し、こう続けます。
 〈般若経〉は現在、その頌(じゅ)数〔詩スタイルの数〕でいうと『八千頌』(『小品(しょうほん)』)→『二万五千頌』(『大品(だいほん)』)→『十万頌』と増広(ぞうこう)し、そのあと『二万五千頌』と『八千頌』の間に『一万八千頌』「一万頌」ができたと推定される。このうち、『八千頌』から『二万五千頌』への発展が〈初期大乗〉の範囲に入る。そして、それによって〈般若経〉の教理はほぼ完成したと見てよい。(高崎直道「大乗経典発達史」『講座・大乗仏教1 大乗仏教とは何か』昭和56年、所収、p.75、ルビ・〔 〕私)
『般若経』と言っても様々なヴァージョンがあったことがわかります。最も有名な『般若心経』は、きわめて少ない字数の中に、『般若経』のエキスを込めた経と言えます。ただ、『般若心経』には、様々な謎があります。この経典の成立に関して、ジャン・ナティエという学者は、奇抜(きばつ)な考えを提出します。『西遊記(さいゆうき)』に登場する三蔵法師(さんぞうほうし)のモデルと言われる僧侶に玄奘(げんじょう)(602-664)がいます。非常に名高い中国僧で、インドまで出かけ、中国に最新の仏教を伝えました。彼は、インドの言葉サンスクリット語にも通じていましたので、漢訳された仏典を駆使(くし)して、『般若心経』のサンスクリット版を作ったとナティエは述べたのです。これに対し、日本の学者から多くの反対意見が出されました。遅く書かれた反対論文を挙げておきましょう。そこから芋づる式に過去の研究が探れるでしょう。石井公成「『般若心経』をめぐる諸問題―ジャン・ナティエ氏の玄奘創作説を疑うー」『印度学仏教学研究』64-1、平成27年。また、『般若心経』の内容にも問題があります。経の有名なフレーズ「色(しき)即(そく)是(ぜ)空(くう)、空即是色(くうそくぜしき)」には確かに『般若経』の真髄(しんずい)「空」が説かれていますので、その経典群に加
えても何の不思議もありません。しかし、後半部になると「羯諦(ぎゃてい)、羯諦(ぎゃてい)」等の呪文のような言葉が出てきます。つまり前半と後半では中味に違いがあるのです。どちらを重んじるかによって、その位置づけが異なってきます。仏教の分類法として、顕(けん)教(きょう)と密教(みっきょう)があります。前者は一般的な経典を使った仏教ですが、後者は師からの口伝(くでん)を重んじ、呪文を大事にします。このような違いがあるので、『般若心経』をどう捉えるのかも違ってきます。すなわち、『般若心経』の前半を重要視するのが顕教、後半を重要視するのが密教というわけです。福(ふく)井(い)文(ぶん)雅(が)氏は「般若心経の核心」『東洋の思想と宗教』1987年の中で、後半重視が素直な見方である旨(むね)を述べました。

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