新インド仏教史ー自己流ー

その3
さらに両者の比較を述べる意見もあるので、抜粋します。
 アーナンダとマハーカッサパの臨終伝説を比較すると、両者には正反対の意味がその中に潜んでいりようである。即ち、阿難は当時の現実の教団において生き続ける存在として、そして教団の事実上の指導的存在として位置づけられていたことを、他方マハーカッサパは宗教者として極めて高い評価がなされるものの、当時の教団からは遊離した存在として位置づけられていたということが読み取れるようである。(並川孝儀「ゴータマ・ブッダ滅後の教団とアーナンダ」『仏教大学文学部論集』83、1999年、p.14)
一見、たんたんと行われていたような結集の背後では、それぞれの弟子の思惑(おもわく)が渦巻いてい
たのです。結局、結集はマハーカッサパが主催し、そのうちシャカの教えはアーナンダが中心となって伝えることになるようです。それが経典の原型となります。そのことをより批判的に見る意見も紹介しておきましょう。以下のように問題点を述べています。
 初期経典に基づく原始仏教の研究は、ブッダ滅後の仏教教団の事情を知ることがその前提とならなければならない。それによって、始めて初期経典を批判的に解読することができるのである。・・・この立場から・・・先ずアーナンダという一人の弟子の伝聞・経験に基づいており、このことがその成立に大きく反映しているという点である。・・・アーナンダという一人の弟子の経験に基づいた限定的な世界は、実はブッダたちの宗教的世界の或る部分を伝えたに過ぎないことになる。(並川孝儀「ゴータマ・ブッダ滅後の教団とアーナンダ」『仏教大学文学部論集』83、1999年、p.2)
私達に伝わっている仏教の姿は、単純なものではないのです。ところで、先に舎利(しゃり)弗(ほつ)・目連(もくれん)という弟子が、もともとはサンジャヤの弟子であったことを見ました。彼ら2人は、シャカの弟子の中でも優秀な人物でした。彼らの影響はどうだったのでしょうか?残念なことに
2人ともシャカより前に亡くなったと言われています。当然、結集の際には2人ともいません。しかし、その影響力を軽んずることは早計です。以下のような指摘があります。
 〔ジャイナ教の聖典〕『聖仙のことば』には釈尊(・・・)が(・)どこ(・・)に(・)も言及(・・)されて(・・・)いない(・・・)で、ブッダとなる教えがサーリプッタ〔舎利弗〕の教えとして紹介されている。・・・現在のわれわれが〈仏教〉と考えられている内容が実は(・・・)後代(・・)の成立のものであるかもしれないという可能性も考えられる。ただここで明言(めいげん)し得ることは、初期のジャイナ教徒の間では仏教は釈尊の教えではなくて、サーリプッタ・・・の教えとして伝えられていたということである。そこから考えられることは、釈尊は臨終(りんじゅう)にもアーナンダその他極(ごく)く僅か(わずか)の人々につきそわれていただけの微々(びび)たる存在であったが、それを大きな社会的勢力に発展させたのは、サーリプッタその他仏弟子のはたらきではなかったか。(中村元「サーリプッタに代表された最初期の仏教」『印度学仏教学研究』14-2、1966年、p.459、ルビ・〔 〕私、現代語標記に改めた)
このように、仏教以外の文献を通して見ると、違う姿も浮かんでくるのです。様々な面を見せる原始仏教を瞥見(べっけん)しました。

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