「倶舎論」をめぐって

LXXXX
 ところで、『倶舎論』第3章「世間品」の主な内容は、説一切有部の宇宙論である。例えば、「須弥山がどうできあがったか」などの、およそ、現在の科学からすれば、荒唐無稽な話が続く。そのこと自体が、非合理的な夢物語だなどと否定はしないが、一見したところ、教理的な問題とはかけ離れている章に写ろう。しかし、実は、そうではない。この章は、ひよっとしたら、世親の、そして説一切有部思想の心臓をえぐるようなインパクトがある
のである。何度か触れたが、私は、世親の正体は「隠れサーンキャ」だと睨んでいる。彼は、サーンキャ派を、勿論、批判する。しかし、その批判の隙間から見えているのは、サーンキャ思想の改竄であって、体よく、かの思想を拝借している姿である。それが、垣間見えるのが、この「世間品」というわけである。インド撰述の3大注釈の1つ『随相論』を著したプールナヴァルダナは、こう述べている。
 サーンキャの立場は『倶舎論』第3章〔「世間品」〕で否定され終わった。
(grangs can kyi phyogs ni mdzod kyi gnas gsum par bkag zin te/北京版、143b/5-6)
実際、「世間品」では、激しく、サーンキャ思想を槍玉に挙げている。大分、実験的な訳だが、以下に紹介しておこう。
 サーンキャの変化(parinama、’gyur ba,転変)とは、どのようなものか?実に、定まった(avasthita,gnas pa)材料(dravya、rdzas)にとって、ある状態(dharma,chos)が消失(nivrtti,log)した時、別のある状態が出現(puradurbhava,’byung ba)する、ということである。ここに、何の過失があるのか?そんな〔定まった素材のような〕状態の維持者(dharmin、chos can)は、存在しないのである。定まったものに状態の変化・多様性(parinama,bye brag)が想定されているからである。誰が、以下のよう
に、いうだろうか?「状態の維持者は諸状態とは別物である、しかし、同じ材料〔=状態の維持者〕が別様〔な状態〕になること(anyathibhava,gzhan du ‘gyur ba)だけが変化というものである。」これも、理屈に合わない。ここに、どんな不都合があるのか?「これ〔諸状態〕は、それ〔材料=状態の維持者〕と同じで、かつ、これはその通りでもない」こんな言葉の論理は、前代未聞(apurva, sngn ma byung ba yin)である。(山口益・船橋一哉『倶舎論の原典解明 世間品』昭和30年、p.367を参照した)
 
 
 katham ca samkhyanam parinamah/avasthitasya dravyasya dharmantaranivrttau dharmantarapradurbhava iti/kas catra dosah/sa eva hi dharmi na samvidyate yasyavasthitasya dharmanam parinamah kalpyeta/kas caivam aha dharmebhyo’nyo dharmiti/tasyaiva tu dravyasyanyathibhavamatram parinamah/evam apy ayuktam/
kim atrayuktam/tad eva cedam na cedam tatheti apurvair esa vayo yuktih/(プラダン本、p.159,ll.20-24、サンスクリット原典ローマ字転写)
 grang can pa rnams kyi ‘gyur ji lta bu zhe na/rdzas gnas pa la chos gzhan log na gzhan ‘byung ba’o//’di la nyes pa ci zhig yod ce na/gnas pa gang gi chos rnams kyi bye brag brtag par bya ba’i chos can nyid med do//chos rnams las chos can gzhan no zhes de skad du zer/chos de nyid gzhan du ‘gyur ba yin no zhes na/de lta na yang rigs pa ma yin no//’di la mi rigs ci zhig yod ce na/de nyid ‘di yin la/’di de lta bu yang ma yin no zhes bya ba’i tshig gi lugs ‘di ni sngn ma byung ba yin no//(北京版、166b/7-167a/1、チベット語訳ローマ字転写)
 数論いかんが、転変の義を執するや。謂く、有法たる自性常に存して、餘法生ずる有り、餘法滅する有りと執す。是の如くの転変は、何の理と相違するか。謂く、有法の常住なるに、別に法生・法滅有りと執す可きは、必ず、容れること無し。誰が法の外に、別に、有法有りと言おうか。唯だ、即ち、此の法転変するときに於いて、異相の所依を名つけて有法となす。此れ亦、理に非ず。非理とは何ぞ。即ち、是此の物にして、而も、此の如くならざる。是の言義、未だ聞かざる所なり。(『冠導阿毘達磨倶舎論』II,pp.470-471から)
ここには、ダルマ・ダルミンという大切な術語が登場する。ダルマの意味合いが、不透明であり、かつ重要であることは、何度か指摘した。ダルマ理解には、対になる術語ダルミンの解明も不可欠である。然るに、残念ながら、『倶舎論』には、この個所以外にダルミンの登場はない。その意味でも、上の記述は、見逃せないのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?