「倶舎論」をめぐって

XXII
さて、伝統的に重要視された玄奘訳のテキストとしては、佐伯旭雅の『冠導阿毘達磨倶舎論』を使用することが多い。同本は玄奘訳を底本として、関連する資料を網羅した優れたものである。冠導本と呼ばれている。同本について、舟橋一哉博士は、こう述べている。
今でも冠導本を使う人が多い。これは泉涌寺の佐伯旭雅氏の編集したものである。旭雅氏は倶舎・唯識(合わせて性相学という)の大家で…(舟橋一哉「インド仏教への道しるべ(2)アビダルマ仏教」『仏教学セミナー』6,1967、p.49)
また、櫻部建博士は、次のように同本の価値に言及している。
 『冠導阿毘達磨倶舎論』は、江戸時代までの“倶舎学”の成果を集大成してそれを頭註および傍注として倶舎論本文に加えた述作で、今もそれから学び得る所は多大であるから、倶舎論学習を志す者にとって必見の書である。(櫻部建「新たに説一切有部研究を志す人のために」『仏教学セミナー』61,1995,p.46)
私の手元にあるのは、平成5年出版の3巻本である。3巻目の末尾には、船橋水哉編輯、船橋一哉増補の『冠導阿毘達磨倶舎論索引』が付されている。佐伯旭雅には、他に、『倶舎論名所雑記』なる一風変わった著作がある。これについては、こう述べられている。
 〔佐伯旭雅は〕倶舎や唯識のような面倒な学問をした人であるから、きっと朴念仁のような人であったろうと想像されるが、実はさに非ず、旭雅氏の書いた「倶舎論名所雑記」には、あの複雑な倶舎の教義が軽快な七・五調で綴られており、その中に、「…名高き名所は十六なれど、一部始終がむずかしい。三度・四度までも聞いても見やれ、それで解せずば、止めやんせ」なんて書いてある。「得・非得の薄霞」とか、「六因四縁の乱れ髪」とか、「滅縁滅行の金甲」というような有名な言葉は、みなこの中に出て来る名文句である。旭雅氏は人情のわかる苦労人であった、という気がする。」(船橋一哉「インド仏教への道しるべ(2)-アビダルマ仏教―」『仏教学セミナー』6,1967,pp.49-50、〔 〕無い私の補足)
舟橋博士の表現は、『倶舎論名所雑記』の洒脱な面をのみ褒めているように見える。なるほど、『倶舎論』のパロディー版みたいではある。しかし、その内実は、異なる。非常に学問的価値の高い著作でもあるのである。その辺の消息を伝えてみよう。少し長いが、往時の学問状況を知るためにも、以下に引用しておこう。
 最も注意すべきものの一つは、部派仏教の随一なる説一切有部宗の根本主張たる一切法実有論であるといつて過言でない。仏教教理の発展経過を、敢えて弁証論的に見直さんとするのでなくとも、此の一切法有の思想が、凡ゆる大小乗論争の踏み台となり、出発点となったことは、争われない史実であるからである。昔来、支那、日本の如き大乗の流通国に於いても、本思想の研究が、決して等閑にされなかったのみならず、寧ろ一般教相学者の常識とし又は基礎学としても必要欠くべからざりしものなることも、亦、多言を要しない所である。従って此の法有思想の研究成果には可なりに注目すべきものがある。我が国に於ける、南寺北寺両伝の論争と、旭雅師編の倶舎論名所雑記中の海応師の三世実有発暉録の如きは、最も著しきものである。それにも拘らず、私の見る所を以てすれば、本思想の考察は、未だに必ずしも完全に達したりとは云い難いと思う。斯学に於ける専門家の間に、今尚、三世実有論に就いて体滅か用滅かの如き論争の繰り返される所以がそこに有ると共に、これは亦、一面この研究の困難なることをも物語るものである。然らば、如何なる点に於て、この困難は存在するのであろうか?…生有り滅有り、転変し遷流するというが如き有為という語の持つ現象的意義と、「実有す」、「体、恒に有なり」と云うが如き実在論的なる意義と、果たして能く矛盾すること無きを得るや否やは、何人にも直ちに起こる疑問であろう。…先の疑問は。有為法そのものの体に生滅あり乍ら法体は恒有なりとするのが有部宗の真意であるか、又、作用の生滅はあるが体には生滅なしと説くのがその真意の存する所であるかという点に移されてくる。…従って三世実有法体恒有という有部宗自体の根本主張にも牴蝕しない範囲内に於て、この体滅か用滅かの問題は解釈せられなければならぬのである。…総じて我が国先学のこの問題に対する研究成果は、これを大体三様に分けて見ることが出来る。第一、諸行(有為法)は無常なりとは仏教の根本法印の一なるが故に、又、体と用は不即不離なるが故に、用の如く法体にも生滅有りと主張する所謂「体滅家」(これは北寺の伝)と、第二、有為法の体には生滅無く、生滅は作用の上にのみこれを云うと主張する所謂「用滅家」(これは南寺の伝)と、第三、此の両説の証文を会通せんとする海応師の如き説とである。…作用に生滅あり許せば、作用と体とは不異とも説く可きを以て、体にも生滅有りとは許し得べきであろう、と云う。以上の証文に依って「体滅家」は「有為の法体に生滅有りとするが有部宗の真意なり」との説を建立し、…「用滅家」は、「法体は恒有にして作用のみ生滅有りとするが、有部宗の真意なり」との説を建立し、亦、道理を以って、体は不生不滅なりとし、体にも生滅有りとは許す可からずとて、「体滅家」の主張を破斥せんとするのである。…畢竟するに体滅論者が、用滅家の引証文の意味を考慮せずして、遮二無二、体滅を主張する限りに於ては、種々不可欠の難問に、遭遇せざるを得ないであろう。…要之、この「用滅家」の主張も、亦、「体滅家」の引証文の意義を考慮せず、ひたすらに体滅の理ある所をも否定せんとするが故に、種々の難問を生ずるのではなかろうか。論者の中には、名所雑記(第四巻)の海応師の所説は、体滅論を評取せるものと看做す人もあるが、私は必ずしも左様ではないと解する。旭雅和尚の戯言は、成程体用倶滅を取っているが、海応師は、体用の不一不異門を提げて、「若し学者が、この不一不異門を了知せば、弁を労して諸論前後の相違を会通するを用いず。婆沙等の中に、不一不異門を建立するは、前後の相違を会通せんが為なり。学者、多分に此の義を了せず、妄りに用滅に執す、豈教理に符せんや。又、偏に体滅を執して、違文を顧みず、亦、不可なりと為す」と言っているからである。…多く何れかの立場を執せば、その執するを戒めるのは、評家本来の立場である。これ私が先に我が国の先学の研究成果を三様に分け得ると説いた所以である。併し、海応師も、かく言った丈では、唯、単に「何れが何れを否定せんとするも、倶に一辺に偏す」との消極的批評にのみ終始して、決してこの問題に対する積極的解釈を与えたこととはならぬ。そこで海応師は、法体常住と法体恒有との両句中、常と恒との意味の相違に留意して、問題の展開を試みている。彼に従えば、「常有の常とは、法が因縁に従はざるに言い、法は因縁に従うも始終異ならざるの意を法体恒有というと言う」にある。…然らば私自身、是等の異証文を如何に取扱わんとするかを述べるのに先立ち、次の如き疑問から説き起こしたいと思う。…(第三)緻密なる法相に至る迄も婆沙全二百巻に於いて首尾一貫せるを誇らんとする程の、論理的なる婆沙編輯者達が、自己の根本的主張たる三世実有法体恒有の法の解釈に限って、その態度を二にし、会通の道無き程の手落ちをしていると解さねばならない理由があろうか。(第四)果たして是れ等の証文は、全く相矛盾する意味のものであり、その底意に於ても相通ずる能わざるが如きものであろうか?…第三の疑問に就いては、少なくとも婆沙論上に於ては、法相の意味を処に依りて二三するが如きことは有り得ない筈であるとの確信を、私は最近婆沙の通読と、逐語訳的国訳との経験から得たのである。…併し少なくも婆沙評家の立場からは、厳密に思想の一貫を期せんとしたものであることが推測され得ると思う。又、この異証文に就いての重心をなす、体という訳語上の考察も、ここにして見なければなるまい。…斯る例証がある以上、同じく体という訳語が用いてあるからとて、直ちに前後共に同一なる法体の意と解して立論し、唯、これ丈で、重要なる根本思想の意味迄も、左右せんとするが如きは、甚だ冒険と云わざるを得ないのではなかろうか。第四の疑問に於て、私は此等の証文は、個々相容れざるものと見るべきでなくして、少なくとも婆沙論文に於ては、その婆沙評家の全体的立場から一様にこれを考察すべき筈のものであると思う。…畢竟するに、少なくとも婆沙論の証文のみから考えれば、「体滅家」の引証文は、主として、此の有為法を、対外道、対他宗、対異類として説いた場合の婆沙中の文句を集めたものなるに、「用滅家」の引証文は、対内的分析的文句のみを、募集したものなりと言い得るのである。(西義雄『阿毘達磨仏教の研究』第三章 三世実有論の研究―特に体滅用滅両論の批判  ―pp.463-482.)


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