「倶舎論」をめぐって
XV
インド思想全般に詳しい宮元啓一博士は、世親の唯識思想について、以下のように述べて
いる。
ヴァスバンドゥ(世親)によって完成された唯識説では、識(心)の特殊な流出(転変)によって世界(心身と環境)が現出するという、流出論的な一元論を唱えるので、自己の存在を認めない無我説の立場に立つとはいえ、この点は、〔古代インドの文献ウパニッシャドに登場する賢者〕ヤージュニャヴァルキヤの発想と軌を一にしていると見ることができる。「識」を「自己」だといってしまいさえすれば、ヤージュニャヴァルキヤの説と何ら変わるところがない。唯識説による無我説は、じつは本質的には有我説なのである。(宮元啓一『インド哲学七つの難問』2002,p.96,〔 〕内は筆者の補足)
また、古坂紘一氏は、雨衆外道(Varsagnya)という奇妙な名を持つサーンキャ(Samkya)学派を、詳しく論じ、こういう疑問で稿を閉じる。
〔唯識で説く〕潜在意識(阿頼耶識)が経験を生み出すという阿頼耶識縁起の思想や、菩薩はその条件として種姓(素質)を具えなければならないという種姓論などのYBh〔=『瑜伽師地論』〕の重要な所説は、むしろ〔サーンキャ学派の〕因中有果論を借用した思想でなかったかとさえ思わせるからである。このことについては今後さらに比較検討する余地があるであろう。(古坂紘一「『瑜伽師地論』に見る因中有果論批判―その思想史的意義―」『大阪教育大学紀要 第一部門』49-2,2001,p.141,〔 〕内は筆者の補足、同論文はインターネット上で見ることが出来る)
また、唯識学者、横山紘一氏は、こう述べている。
現象世界は根源的なるものが変化し転変したものであるという見方は唯識思想に一脈通ずるところがある。なぜなら、深層的・根源的心である阿頼耶識の変化したものが表層的自己とおよび自然であるとみるからである。阿頼耶識を根源識としてたてるにいたった、あるいは世親が「識転変」の概念を作り出すにいたった背景には、サーンキヤ学派の自性からの転変説の影響があったのかもしれない。(横山紘一「世親の識転変」『講座大乗仏教8-唯識思想』昭和57年所収、p.119)
さらに、インド哲学の専門家丸井浩氏は、以下のように論ずる。
ヴァスバンドゥが確立した識転変説は、顕在意識の転変と潜在意識の転変(種子の転変の総称)の相互的因果関係の連鎖として特徴づけられる。もちろん、転変の主体として変異することなく永続する実体としての自我なるものを認めているわけではないから、その点で様相は変化しつつも質的には不変の根本原質を立て、しかもそれとは別にその活動をただ観照するにすぎない精神原理を立てるサーンキヤ思想とは、決定的とも言える違いがある。しかしながら、潜在的な意識が顕在的な心の活動・世界を生み、顕在的な意識作用が潜在意識に回帰してゆく構図は、サーンキヤの開転説とかなりよく符号することも事実である。両者の類似点は、パリナーマという単なる用語の一致だけでは済まされないことは確かである。ちなみにヴァスバンドゥの伝記には、ヴァスバンドゥの師がヴィンデュヤヴァーシンというサーンキヤの論師に論争で敗れたため、ヴァスバンドゥは師の仇うちに『真実七十論』なるものを著して、その論師を打ち破ろうとしたというエピソードが収められている。もしそれが真実だとすれば、ヴァスバンドゥとサーンキヤとの関係はいよいよ緊密なものとなるわけで、ヴァスバンドゥがサーンキヤの開転という考え方に何らかのヒントを得たかもしれないという憶測も、結構真実味を増してくるのである。(丸井浩「仏教とインド哲学の思想交渉」『講座仏教の受容と変容』,1991所収、pp.99-100)
面白いことに、これらの見解と一致するような記述が、チベットの有名な文献に出てくる。チャンキヤ(lCang skya,1717-86)という著名な学僧は、彼の『宗義書』Grub mtha’の中で、こういっている。
学説に通じたあるものは、サーンキヤのこれらの見解は、唯心形象虚偽(sems tsam rnam rdzun)の見解と近い〔と説き〕、形象の変化(rnam ‘gyur,parinama)を虚偽と認める者は、事象(dngos po、vastu)の実相を見る者であるという〔唯心形象虚偽派の見解〕について、〔それは、サーンキヤへの〕接近であると説くのは、智慧が大変お粗末に尽きるのである。
Grub mtha’khan po kha cig gis/grangs can gyi lugs sems tsam rnam rzdun gyi lugs dang nye ba dang/rnam ‘gyur rnams rdzun par ‘dod pa dngos po’i gnas lugs mthong ba la nye bar song ‘chad pa ni/blo gros shin tu rtsing bar zad te/(Lokesh Chandra ed:Buddhist Philosophical Systems,1977,
New Delhi,Sata-Pitaka Series,vol.233,Cha,26b/5-27a/2,folio, 54-55,チベット原典ローマ字転写)
ここにも世親とサーンキヤの関係を只ならぬものと見る人がいたことが、示唆されているのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?