「倶舎論」をめぐって

XLIII
以下では、まず、インド撰述の代表的『倶舎論』注について説明しよう。
1つ目は、ヤショーミトラ(Yasomitra、称友)の『明瞭義』(Sphutartha,スプタールター)である。これには、サンスクリット語とチベット語訳の両方が揃っている。そのため、最も広く利用されている。サンスクリット語には、2種の刊本がある。よく底本とされるのは、U.Woghihara:Sphutartha Abhidarmakosavyakhya The Work of Yasomitra,1936,Tokyo(1971,1989に再版された)である。今1つが『倶舎論』のテキストで紹介したシャストリ本に含まれているものである。私は、便利なのでシャストリ本を利用することが多いが、何を使ってもかまわない。チベット語訳は、北京版No.5593である。出版年を見てもわかると思うが、この『倶舎論』注の方が、『倶舎論』そのものよりも早く公刊されているのである。これについて舟橋一哉博士は、こう来歴を述べている。
 称友(Yasomitora)〔ヤショーミトラ〕の註は、梵本が残っているところの唯一の倶舎論註で、大谷派の笠原研寿が明治年間にイギリスから持ち帰ったものであるが、昭和になってやっと浄土宗の荻原雲来氏によって校訂出版せられ、更にその和訳も界・根品〔『倶舎論』の第1・2章〕だけ三冊にして出版せられた。しかし、荻原氏の死後中絶のままになっていたのを、山口益氏と船橋とが跡をついで、共著の形で次の世間品〔第3章〕を世に問うた。(船橋一哉「インド仏教への道しるべ(2)アビダルマ仏教」『仏教学セミナー』6,1967、p.49、〔 〕内私の補足)
船橋博士の祖父にあたる船橋水哉博士は、古い書物で、こう述べている。
 本書が梵本として現存せる事は実に学界の慶事なり。今我邦にも数本あり。南条博士の所蔵は笠原氏とともに英国にて写録せるもの也。(舟橋水哉『仏教体系 倶舎論第一』大正9年、p.4、現代語表記に改めた)
更に、前嶋信次博士は、以下のように様子を記している。
 南条が、かかる意義のある仕事に没頭している間に、笠原もまたその明哲な人格と情熱をもって大きな目的に進みつつあった。…パリーの国立図書館から称友尊者(ヤショーミトラ)著の梵文『阿毘達磨倶舎論釈』(アビダルマコーシャ・ヴャークヤー)を借り出し、これを笠原にあたえて写さしめた。…紙数五百三十五枚、紙の幅五、六寸、長さ一尺半、両面それぞれ九行にわたる大著であったが、これをわずかに三、四ヶ月で写しおわり、…(前嶋信次「美しき師弟」『インド学の曙』1985所収,pp.47-48)
後でも、詳しく紹介する予定の山口益・舟橋一哉『倶舎論の原典解明 世間品』昭和30年には、
次のようにある。
 称友の梵文倶舎註釈が倶舎論の原典研究の立場からまさしくとりあげられたのは、明治の初期に南条文雄師とともにイギリスに留学した大谷派の学僧笠原研寿師によってであった。はじめは南条文雄師がビュルヌフの依用した巴里アジア協会の写本の謄写にとりかかられたのではあったが(明治十四年、1881)、同年十一月笠原師がこれに代わり、透明紙を原本の上に布いて影写を始め、三四ヶ月にして、五三五葉からなるその写本の全巻の謄写を卒へたものであった。しかしその業の過労のために、笠原師は病を得、帰朝の後、明治十六年(1883)遂に病没せられた。この笠原師が筆写せられた謄写本は、現在大谷大学図書館に蔵せられ、大正十二年(1923)には、故泉芳璟教授の配慮によって、その謄写本より青写真の映本を作製して、同学の研究者に分与せられたこともあった。(山口益・舟橋一哉『倶舎論の原典解明 世間品』昭和30年、pp.1-2,現代語表記とした)
以上の記述から知られるように、ヤショーミトラの『倶舎論』注の校訂出版に功績大なるのは、南条文雄と共にイギリス留学した、笠原研寿(1852-1883)である。然るに、荻原博士の序文には、不思議なことにその名はない。こうあるのみである。
 底本は、カルカッタ写本が使用され、故南条文雄が書写したパリ国立図書館のものと校会される。(U.Woghihara:Sphutartha Abhidarmakosavyakhya The Work of Yasomitra,1989,rep.of 1936,Tokyo,preface,p.1)
ここに笠原の名はない。何とも不可解である。

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