インド仏教史ー自己流ー

第5回 シャカの生涯と思想2
その1
平川彰氏の仏伝を引用して、その後を見てみましょう。
 仏陀は悟りを開いたあと、深い寂静(じゃくじょう)に沈んだという。七日の間菩提樹の下で三昧(さんまい)(samadhi,サマーディ、心の統一)に入って過ごし、そのあとさらに別の樹(き)の下で、解脱(げだつ)の楽を味わいつつ坐していたという。・・・このようにして五週間も、樹下(じゅか)を立ち得なかったという。そして自己の悟った法(dhamma,真理)は深淵(しんえん)であるから、他に説いても理解されないであろうと考え、教えを説かないという心に傾いたという。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.43,ルビほぼ私)
「三昧」は今でも使います。「~三昧」と言って~に夢中なことを表現します。これも瞑想の一種です。禅定と同じような意味ですが、先にも述べたように、インドは瞑想大国で、瞑想の種類は数多くあります。しかし、我々には詳しいことはわかりません。おそらく、シャカは、悟りを得た後、静かな瞑想状態に浸(ひた)っていたと想像するしかありません。大事なのは、
「教えを説かないという心に傾いた」ということでしょう。伝説ではシャカに是非説法してもらいたいとある神様が懇願(こんがん)したとされています。それは「梵天(ぼんてん)勧請(かんじょう)」と呼ばれています。
梵天という神は原語ブラフマー(Brahma)です。その神様がシャカに説法をお願いしたと伝えられています。それほど説法することを躊躇(ためら)ったということを伝えています。しかし、シャカは考えを変えます。伝記の続きは、こうです。
 仏陀は説法することに決心して、まず誰に教えを説こうかと考えて、苦行時代に共に修行した五人の修行者(五(ご)比丘(びく))に説こうと考えた。彼らならば、自己の悟った法を理解してくれると思ったからである。彼らは西の方のベナレス(Baranasi)の鹿野(ろくや)苑(おん)(Mighadaya)にいた。・・・最初に法を悟ったのは五比丘の中のコーンダンニャ(Annata-Kondanna,憍陳如(きょうちんにょ))である。彼が釈尊の最初の弟子となった。その後残りの四人も法を悟って弟子となった。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.45,ルビほぼ私)
この五比丘は、最初からシャカを歓迎して教えを聞いたのでもないようです。ウイキペディアの「五比丘」には次のような記述があります。
 当初、この五人の比丘は、修行を捨てた釈迦が遠くから来るのを見て、軽蔑(けいべつ)の念を抱き歓迎を拒(こば)んだ。しかし、彼が徐々に近づくと、その堂々とした姿を見て畏敬(いけい)の念を抱き、自然に立ち上がって座に迎えたといわれる。(ウイキペディア「五比丘」2020/06/24ルビ私)
この最初の説法のことを「初転(しょてん)法輪(ほうりん)」と言います。仏教教団の誕生です。その後45年間、マガダとコーサラを拠点として多くの人々に説法を行いました。これに関して、次のような指摘があります。
 あまねくひとびとに対して教えを説くということは、当時のインドではまさに未曾有(みぞう)のことであった。これはバラモンの哲人(てつじん)の場合と比較してみるとよくわかる。これらの哲人は、教えを授ける相手を狭く限り、自分の子とか、あるいは教えをうける資格があると見た人々に対してのみ教えを説いた。ところがゴータマ〔=シャカ〕はこの制限をやぶってしまった。しかしこの因襲的(いんしゅうてき)な制限の破棄(はき)をおこなうには、相当な勇気と決断を要したことであろう。ゴータマの実践思想家としての偉大さがここにある。(中村元『中村元選集[決定版]第5巻 インド史I、1997年、p.290、ルビ・〔 〕私』
シャカの最後の様子を、平川氏はこう述べています。
 仏陀はヴェーサーリーを出発して旅を続け、多くの村を経てパーヴァー(Pava)に着いた。ここで鍛冶工(かじこう)チュンダ(Cunda)の施食(せじき)をうけて重い病気にかかり、出血と下痢に苦しんだという。この時仏陀が食べたものは、「スーカラマッダバ」(sukaramaddhava)であったというが、これはやわらかい豚の肉であるといわれ、あるいは一種の茸(きのこ)(栴檀(せんだん)茸(だけ))であったともいう。その後、仏陀は、病に苦しみつつ遊行(ゆぎょう)を続け、クシナガラ(Kusinagari,Kusinara、拘尸那城)に達した。そしてサーラ樹の下で、ついに般(はつ)涅槃(ねはん)に入った。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.52,ルビほぼ私)
仏教独特の言葉がここでも出てきました。特にわかりにくいのが「般涅槃」でしょう。「涅槃」は聞いたことのある方もいるかもしれません。原語はニルヴァーナ(nirvana)で、その音写語です。並川氏の説明を引用しましょう。
 涅槃とは「寂静(じゃくじょう)(サンティ)こそが涅槃と知って」のように寂静であると明快に規定され・・・「この世の人びとは、喜悦(きえつ)によって束縛(そくばく)されている。この世の人びとの思慮(しりょ)が、さまざまな思いを広げるのである。妄執(もうしゅう)を捨て去ること」であると、涅槃を世俗的(せぞくてき)な営みで生じる欲求や貪(むさぼ)りや妄執を取り除いたり、所有や執着(しゅうじゃく)をしないことによって老いと死の苦しみが滅(めっ)している世界であると説いている。(並川孝儀「原始仏教の世界」『東アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開』平成22年、pp.98-99、ルビほぼ私)
つまり、涅槃とは悟りの境地を意味します。では「般涅槃」とは何でしょうか?「般」は原語パリ(pari)の音写です。完全なという意味です。完全な涅槃のことを般涅槃と言います。平川氏の説明から推測すれば、般涅槃はシャカの死去を指しているようです。元来の悟りの境地という意味合いとは幾分違います。これについても、並川氏の解説を聞きましょう。
 後の仏弟子たちがゴータマ・ブッダの死という荘厳(そうごん)な宗教世界を完全(かんぜん)無欠(むけつ)なものとしてから、涅槃という理想的世界が死と結び付くようになる。死とは苦悩を生む場としての肉体が壊滅(かいめつ)したことと捉え、死によって肉体から生じる執着や欲望なども完全に消滅すると考えた結果「完全な涅槃」を意味する「般涅槃」という表現が生まれることになった。ここに、生存中の理想的な境地を意味した原初的(げんしょてき)な段階から、死という概念が涅槃に含まれることになった。その契機(けいき)が、まさに仏弟子たちによるゴータマ・ブッダの死の表現であったのである。(並川孝儀「原始仏教の世界」『東アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開』平成22年、p.101、ルビ私)
シャカの死は、大きな衝撃(しょうげき)だったのです。弟子達はそれを乗り越えて、シャカの教えを守ろうとしました。その様子を教理的な面から示す記述を紹介しましょう。平川彰氏は、こう述べています。

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