「倶舎論」をめぐって

XII

さて、玄奘由来の法相宗という宗派では、『倶舎論』を学ぶことが、基礎学であった。爾来、我が国では、各宗派の学僧達が、競って、『倶舎論』学習に励んだ。その際に利用した文献群に対して、私の有する知識は、お粗末極まりない。明治期に、ロシアの若き学徒ローゼンベル(O.O.Rosenberg.1888-1919)をして、日本留学を決意させたのは、古来からの伝統『倶舎論』研究である。近時、ローゼンベルグの研究は、日本でも、大いに、評判が高いけれど、彼が研究の基としたのは、古き日本の「倶舎学」である。その伝統は、今の日本では、微々たる姿を留めるだけであるのに、近代的に『倶舎論』を研究している人々から、ローゼンベルグを介して、絶賛されていることになったのである。何とも、奇妙な逆転現象が起こっている。ローゼンベルグに関しては、前に紹介したが、後で、再度、詳しく、説明することにしたい。1つだけやや変わった文献から、インドにおける『倶舎論』の隆盛振りを伺わせる記述を紹介しておこう。7世紀のインドで、著名な詩人バーナバッタ(Bana-Bhatta)は『ハルシャ王行状記』Harsa-caritaなる作品を残した。
その作品は、インドでは珍しく、史実を踏まえたものとして、重要視されている。そこにこういう1節がある。
 鸚鵡達すら、釈迦の教えに通じ、『倶舎論』を吟じて、
sukair api sakyasasanakusalaih kosam samupadisadbhih…
(G.Musalgaonkar,ed.;Harsa-Charita of Banabhatta,Kashi Sanskrit Series
282,1992,p.738,l.21)
これには、コウエルの英訳もある。以下のように訳している。
Some devout parrots,skilled in the Sakya sastras,were explaining the Kosa
(Translated by E.B.Cowell,F.W.Thomas:The Harsa-Carita of Bana,1993,rep.of
1968,Delhi,p.236)
更に、以下のような、櫻部博士による言及もある。
七世紀に活動した詩人バーナ・バッタは、名作『ハルシャ・チャリタ』の中で、仏教比丘の隠棲所のありさまを描写して、そこでは樹に棲む鸚鵡すら『倶舎』の句をさえずり交わす、と謳っているが、それも当時の佛教僧の間にこの論の学習の隆盛であった事実を物語る。(桜部建『佛典講座18 倶舎論』昭和五十六年、p.11)
7世紀当時のインドで、仏教を代表する論書は、紛れもなく『倶舎論』であったのである。今のところ、『倶舎論』に対するイメージは、古い仏教の論書というだけかもしれないが、当時のインド思想界の様子は、相互交流が盛んで、『倶舎論』はそういう雰囲気の中で、磨かれた1級の書物である。それを彷彿とさせる文章があるので、紹介しておきたい。後で、詳しく触れるが、『倶舎論』には注釈書が多い。中でも、ヤショーミトラ(Yasomitra)と
いう人の『明瞭義』Sphutarthaは、最も有名なものである。そこに、こういう1文がある。
 サーンキヤ思想に従えば、「有からだけ生起するが、無からではない」というので、それを取り上げて、〔『倶舎論』では〕、「前にあったとしても、あるいは」と言及されているのである。「あるいは」という言葉は、他の思想を選別するためである。もし、汝らの立場が「有が生起する」というのであれば、我々も、「有が生起する」のである。つまり、毘婆沙師の流儀では、「未来は有たるもの」であり、経量部の流儀では、「生起させるダ
ルマたる種子は、有という存在である」からである。(以下原文ローマ字転写、チベット訳もつける)
 tatha hi Samkhya-matanusarena sata evotpada nasata iti tad etad adhikrtya braviti.san pura ‘pi veti.va-sabdo mata-vikalparthah.yadi bhavatam sann utpadyata iti paksah.asmakam apisann utpadyate/Vibhasika-nayayenanagatanam astitvat.Sautrantika-nayena cajanaka-dharma-bija-sadbhavat.
(U.Wogihara ed. Sphutartha Abhidharmakosavyakya the Work of Yasomitora,Tokyo,1989 rep. of 1936,p.295,ll.28-32、S(A):p.359,ll.29-32)
 
grangs can pa’i gzhun lugs kyi rjes su ‘brangs na yod pa kho na skye’i med pa ni mayin no//zhes ‘byung bas de’i dbang du byas te/’on te snga na yod na yang rung zhesbya ba smos so//’on te zhes bya ba ni sgra ni gzhun lugs tha dad pa’i don yin te/gal tekhyod kyi phyogs yod pa skye ‘o//zhes bya ba yin na kho bo cag gi yang yod pa skye stebye brag tu smra ba’i lugs kyi ma ‘ongs pa yod pa’i phyir dang/mdo sde pa’i lugs kyiskyang skye bar byed pa’i chos sa bon yod pa’i phyir ro//(北京版、No.5593,Cu,328b/3-6)
これによれば、仏教以外の宗派、サーンキヤも毘婆沙師も経量部も、「有の思想」という点では、同一なのである。インド思想界の有様を脳裏に描いて、『倶舎論』に接して欲しい。
 さて、『倶舎論』に対する書誌学的情報を、適宜、述べていこう。『倶舎論』は、韻文で書かれた偈の部分と、散文の注釈(bhasya、バーシュヤ)から構成されている。注釈も世親自身が書いたものである。常識的に考えれば、注は偈をわかりやすく解説したものである。まして、その注が本人によって書かれたものならば、偈と注を一体として理解していくのが筋道であろう。しかし、『倶舎論』は偈と注で意見が異なるとされる。偈は説一切有部(Sarvastivadin,サルヴァースティヴァーディン)の教義に忠実だが、注はそれを批判する経量部(Sautrantika,サーウトラーンティカ)の立場で著されといわれている。この点は現代の研究者も指摘する。加藤純章博士は、『倶舎論』成立の事情に関する伝承を整理し、実際のテキストでその確認を行い、次のように述べている。
 ところで『倶舎論』本頌にはpravaksyami〔プラヴァクシュヤーミィ、私が説くあろう〕とかmaya〔マヤー、私によって〕のように1人称単数で示されるものがある。ところが釈論では、jnapayisyamah〔ジュニャーパイシュヤーマハ、我々は知らしめるであろう〕vaksyamah〔ヴァクシュヤーマハ、我々は語るであろう〕darsayisyamah〔ダルシャイシュヤーマハ、我々は検討するであろう〕upapadayisyamah〔ウパパーダイシュヤーマハ、我々は解説するであろう〕のように一人称複数が用いられている。また釈論にはAcarya〔アーチャールヤ、先生〕の語が存在する箇所があるが、これは本頌の作者〔世親〕を示していることは、文脈と諸註釈書の記述より明らかである。つまりこの事実は、実際には世親が本頌と釈論を造ったとしても、表面的には本頌は世親が造り、釈論は彼の弟子たちが祖述したという体裁になっていることを示している。釈論は弟子たちの著述という形にして、少しでも自己を表面に出さないように試みたのは、カシュミールの人々に対する配慮ではなかったろうか。加藤純章『経量部の研究』1989,p36、〔 〕内私の補足)
加藤博士の記述から、『倶舎論』の錯綜したスタイルが伺えるであろう。博士は、合わせて、『倶舎論』著作時の部派間の複雑な思想状況も浮かび上がらせている。『倶舎論』はもろ手を上げて歓迎されていたわけではないのである。今、我々は、「倶舎論が千古不磨の名著として重んぜられ、」(木村泰賢『阿毘達磨の研究』、p.259)という木村泰賢博士のようなイメージで接することが多いが、それも1種の思い込みなのかもしれない。

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