仏教論理学序説

その6
ひどく手前勝手な仏教論理学史を綴ってきたが、私の興味の赴くままのもので、客観性に欠けるというより、私が大事であると考えたことを中心としたと理解してほしい。では、現代の論理学研究を以下に紹介することにしよう。
 まず、欧米の著名な学者の見解から始めよう。ドレイフェス(G.Dreyfes)は、チベットのゲルク派(dGe lugs pa)(Tsong kha pa1357-1419が創始し、ダライラマの属する宗派)のダルマキールティ理解に光を与えようとした。そして、ゲルク派の見方にmoderate realismという名称を与えた。チベット仏教論理学には簡単に触れたが、彼らの論理学的知見をダルマキールティ解明の糸口とする試みは、今では当たり前に行われている。ドレイフェス氏は、1989年の国際チベット学会で、この解釈に触れ、1992年に原稿化し、さらに、1997年に大著Recognaizing Reality Dharmakirti’s Philosophy and Its Tibetan Interpretaton『実在の確認 ダルマキールティの哲学とそのチベット的解釈』を出版した。以降、氏の提唱するmoderate realismは、幾多の研究者に注目されるようになった。
 さて、moderate realismとは、そもそも、どういう意味なのであろうか?「穏健な実在論」とでも訳せるこの語の思想的ニュアンスは何か?ドレイフェス氏は、moderate realismとextreme realism「過激な実在論」を対峙させている。そして、このextreme realismはインドのニヤーヤ学派等の立場としている。ドレイフェス氏は、この辺の経緯をこう説明している。
 ダルマキールティは何らかの普遍が実在し得る可能性を考慮しているとは思えない。「普遍が実在し、個物とは別物である」と主張するニヤーヤ学派との論争に限れば、ダルマキールティの戦略は「普遍は個物とは別物と認めながら、如何なる実在性も払拭することである。」ところが、ドレイフェス氏によれば、ゲルク派では、「ダルマキールティは、普遍にも一定の実在性を認めている。」という趣旨の解釈を示しているのである。例えば、ゲドゥンドゥプ・ダライラマ1世(dGe ‘dun grub 1391-1475)は「普遍はそれ自体は事物ではないが、普遍が非事物である必要はない。」と述べているそうである。また、spyi(普遍)は実在するが、spyi mtshan(普遍相)は実在しない、などとも発言したようである。さらに、ケードゥプジェー(mKhas grub rje,1385-1438)は、この解釈は仏教論理学・認識論の如何なる権威的テキストとも矛盾しない、と論じている、ということである。これが、moderate realismといわれるものの正体である。ニヤーヤ学派ほど過激ではないが1種の普遍実在論には変わりはない。だから「穏健な実在論」なのであろう。
 議論の主旨をりかいするためには、少々、説明がいる。インド仏教論理学の考えでは、真に存在するものは、思考の対象すなわち普遍の類ではなく、直観による一瞬の対象なのである。それを漢訳では自相(svalaksana),普遍を漢訳では共相(samanyalaksana)と呼んでいる。当然、ニヤーヤ学派は、思考の対象も実在すると見なしている。仏教論理学はこれを批判していたと考えてよい。


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