「倶舎論」をめぐって

XCII
その「論理追従経量部」は、次の「経量部」章で論じられている。以下の記述がそれである。
毘婆沙師と経量部共通なもの、または聖典に準じる〔経量部〕の主張の仕方は『倶舎論』の如くであることにより、説明し終えたが、経量部自身の独自なもの、または論理に準じる自流の二諦の主張の仕方は、〔ダルマキールティが『量評釈』「知覚」章第3偈で規定したように〕勝義において目的達成能力があるものが、勝義諦、勝義として成立するもの、自相と設定される。そのような能力のないものが、世俗諦、世俗として成立するもの 共相と設定される。
   …bye mdo thun mong ngam lung gi rje ‘brang gi ‘dod tshul mdzod ltar yin pas bshad zin la mdo sde pa rang gi thun mong min pa’am rigs pa’i rje ‘brang rang lugs kyi bden gnyis ‘dod tshul ni/don dam par don byed nus pa/don dam bden pa dang/don dam du grub pa dang/rang mtshan du ‘jog/de ltar mi nus pa’i chos kun rdzob bden pa dang/kun rdzob tu grub pa dang/spyi mtshan du ‘jug ste/(f.339/6-340/2、チベット原典ローマ字転写)
〔 〕内に補足したように、「論理追従経量部」は、明らかに、ダルマキールティの『量評釈』に追随している。つまり、毘婆沙師と経量部はセットで扱って、始めて理解可能なことが伺えるのである。


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