仏教余話

その229
続けて、舟橋博士の「倶舎を漁る記」から引用してみよう。
 四月二十一日快晴。此日、性相学科生数名を引具して、見学のため御室付近の、倶舎に関係ある二三の寺院を探るべく試みた。…先ず太秦の広隆寺を訪問した。こゝへは十二三年前一度参詣したことがあるが、昔ながらの奥ゆかしい寺であって、どことなくよいところがある。倶舎頌疏条箇二巻、広隆寺長伝の作となって居るから、長伝を取調の為住職にも面会して見たが、どうも要領を得なんだ。…広隆寺を辞して、道を北方に取り、妙光寺を訪ねることにした。…妙光寺は禅宗十刹の一で、住職は真宗大学出身の今津洪嶽君である。開基法灯国師の木像を初めとして、寺宝を拝観し、且つ古版の経論等を見せて貰ひ、こゝに昼飯を済まし、かくて湛慧の墓に詣でることゝした。西寿寺と広隆寺との中間、道路の東方、双丘の西方に当って一面の藪がある、此が即ち長寺院の跡である。長寺院に就いては、日本名勝地誌や地名辞書、又は古い地誌にも記してないので、此を探るには余程苦心した。南方一面が寺跡らしい、北方の少し小高い処に墓所がある。而して普通の墓所の西方に僧侶の五六の墓がある。其中の一が即ち湛慧律師の墓であった。此を探るに就いて、今津君が同行して呉れたので、大に利益を得たことである。尤も此墓所も藪の中であってこゝまで行くには甚だ困難であった。湛慧は指要鈔の著者で、普寂の師匠である。指要鈔には普通奥書はないが、或る一本に、
   洛陽西郭、御室長時院、湛慧律師、所抄記也。
 とあるので、長時院を探り出さうとしたのである。然るに今度はからずも其を見出したので、私は非常に愉快に感じたのである。…御花も上って居らねば、参詣する人とて一人もない。又此を管理する人もないらしい、さりとて浄土宗たるもの、あまりに不行届ではあるまいか。当年の湛慧律師、現今のあの墓の状態、誠に今昔の感に堪へられず、知らず念仏数編、口の中で称へさせて貰うたことである。(舟橋水哉「倶舎を漁る記」『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年所収、pp.257-261,1部現代語表記に改めた)
なかなかの好エッセイであろう。「性相学科」など、最早、存在しない古い学科名なども見られ、興味深い。後半、湛慧という学僧の墓を探す様子が描かれている。私も、最近までこの学僧のことは、全く知らなかったのであるが、随分と偉い人らしい。彼の『阿毘達磨倶舎論指要鈔』は、よく利用された注釈書で、1914年刊行の古い辞典『仏教大辞彙』には「入文解釈頗る詳細にして議論穏当なれば倶舎論研究の好参考書なり」(p.832)など
と書かれている。『倶舎論』の特徴をよく「理長為宗」と称し、その論理的記述を讃えるが、その言葉に関連して引用されるのが、湛慧の『阿毘達磨倶舎論指要鈔』なのである。舟橋博士のエッセイは、伝統倶舎学に詳しい人が読めば、相当に面白い読み物であろうが、残念ながら、私はその辺りには疎い。

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